第129回研究談話会 平成20年6月7日・藤女子大学
サザン・レディのアイデンティティの問題をめぐって──
Eudora Welty の The Optimist's Daughter
発表者: 本村 浩二 (関東学院大学)
要旨
本発表で主として取り上げるのは、Eudora Welty (1909-2001) の最後の小説となった The Optimist's Daughter (1972年に出版、1973年にピューリッツァー賞)である。従来 “past”、“memory”、“vision” などの概念を通じて分析されることが多いこの中編は、よく言われているように、彼女が過去の記憶をたよりに、母と自身の関係の真相に迫ろうとしたものである。なるほど、それは、その扉のところに、“For C. A. W.”(Chestina Andrews Welty の略)と記されているように、長患いの末亡くなった母(1966年逝去)に捧げられている。
にもかかわらず、作品のタイトルが「楽天主義者」の「娘」となっているのは、いささか奇妙である。というのも、Welty の自伝 One Writer's Beginnings (1984) によれば、「楽天主義者」であったのは父の方であり、母はむしろ「悲観主義者」であったからだ。これでは、彼女の関心が「父と娘」の関係にあるかのような誤解を読者に招いてしまいかねないのではないか。そのような誤解を承知の上で、彼女がそのタイトルを選択した意図は何であったのか。
本発表は、こうした疑問を念頭におきながら、The Optimist's Daughter における “Southern Lady” たるものの問題に──特に「階級」の切り口から──光を当ててみたい。その議論の過程で随時取り上げたいのが、“A Memory”(1937) と題されている彼女の短編である。作家のほぼ出発点に位置する、若い瑞々しい雰囲気が醸し出されている短編、および晩年の彼女の円熟した巧みな筆致で書かれた中編。双方の作品を同じ俎上に載せることは、この作家が辿っていった歴史的変遷を巨視的にとらえるパースペクティヴをえることにも繋がるであろう。
報告者: 松井 美穂 (札幌市立大学)
報告
今回の発表で本村氏は、従来「過去」、「記憶」、「ヴィジョン」といった観点から論じられることが多かったユードラ・ウェルティの中編『楽天主義者の娘』(1972) を、三人の女性登場人物ローレル/ベッキー/フェイ(=娘/母/義母)を軸に、サザン・ウーマンフッドという視点から、1937年の短編「記憶」と比較しつつ、読み直すことを試みた。ここでキーワードとなるのが「母と娘」である。本村氏によると本作品は、キャリアの晩年期にあるウェルティが過去の記憶をたよりに母チェスティーナとの関係の真相に迫ろうとしたものであり、実際この作品はチェスティーナへの献辞が記されている。
氏はまず、スーザン・マーズの『伝記──ユードラ・ウェルティ』を引証しながらサザン・レディであるチェスティーナの人物像を確認し、娘をサザン・レディたらしめようとする母との「複雑微妙な」関係においてウェルティの思考が形成され、それが『楽天主義者』の執筆動機となったことを説明した。次に、ウェルティの少女時代の記憶をもとに書かれたという短編「記憶」についてふれ、主人公のロマンチストの少女が醜悪な外部(ここには南部の「階級」の問題が絡んでいる)から自らを遮断し内なる甘美な世界に引きこもるという内容を、一人称の作者が批判的な口調ではなくリリカルな口調で語ることが、作者がその階級差別を含むサザン・レディのイデオロギーを許容していることの証左となっていると指摘した。
これらを前提にいよいよ『楽天主義者の娘』の分析に入る。主人公ローレルが彼女よりも下層の階級に属する義母フェイの家族を見る視線は「記憶」の少女と同類のものであるが、ローレルは完全にサザン・レディのイデオロギーに染まっているわけではない。むしろ、ローレルとフェイの関係を詳細に見て行くと、実母とは全く対照的で非サザン・レディ的要素を多々持った義母とローレルとの類似性が浮かびあがってくる。言ってみれば、フェイはローレルの「分身」あるいは「シャドウ・セルフ」であり、ローレルの内面は実はフェイ的/非サザン・レディ的要素との格闘の場となっている。その意味で重要なのは最後のパンこね台をめぐるローレルとフェイとの対決場面である。本村氏は、フェイに対するローレルの報復的な衝動のなかに、ローレルの自己処罰的な衝動を読み取り、また同時に、実はこの場面は、実母と全く反対の義母と娘を対決させることにより、婉曲的に母と娘との対決を表現しているのであると指摘する。
最後に結論として本村氏は、本作品においてウェルティは、母が娘に伝えるサザン・レディのイデオロギーを放棄していいものとしても、受容していいものとしても描いているのではなく、むしろ、この曖昧さの中に、作者の南部に対する矛盾をはらむ複雑な心境を読み取るべきであり、この作品は一人の南部女性が「一つに固定されない、複合的なアイデンティティを持つ本来の自分」になるための奮闘努力を描いた作品と読むことができるのである、と述べた。
ウェルティの作品に関しては本村氏も指摘するように、従来、社会性、政治性に欠けるという批判があり、また通常彼女自身がフェミニスト作家と称されることもない。しかし本発表を通してウェルティが南部女性のアイデンティティの問題に深く関心があったことが明らかとなり、その問題点を軸に丹念にテキストを読み込むことによって、本村氏は確かに『楽天主義者』の新たな読みを提示されたのである。フロアからの質問、意見は、ウェルティの伝記的事実から、作品内での「鳥」のシンボリズム、楽天主義者とは誰か、ウェルティにおける「過去」と「記憶」に関する問題まで多岐に渡り、参加者もこの作品を深く味わい、理解することができたのではないかと思う。