第132回研究談話会 平成20年9月20日・藤女子大学
“Deep Image” をめぐって――Robert Bly と Jerome Rothenberg
発表者: 松田 寿一 (北海道武蔵女子短期大学)
要旨
90年代に出版された Iron John や The Sibling Society によって、今では詩人としてよりもアメリカの精神世界回復運動の指導者としての印象すら与えかねない Robert Bly (1926-) と「民族詩学」(Ethnopoetics) の主唱者、ダダ詩を始めとする実験的な詩の編纂者としても知られる詩人 Jerome Rothenberg (1931-) はともに50年代末から60年代にかけての “Deep Image Poetry” の中心的存在であった。しかし、精神の深層から湧出するイメージの詩として “New Surrealism” “Emotive Imagination” “Mystical Imagism” とも呼ばれたこの種の詩に対する互いの認識には当初から微妙な違いも存在した。Bly において “Deep Image” はコズミックな世界への感応と深く関わり、孤独や瞑想によって得られた内的経験とそのプロセスが詩人から読者へと伝えられる。他方、Rothenberg にとって “Deep Image” は White Sun Black Sun (1960) から Sightings (1964) へと進展する中で、「イメージのリズム」と「息のリズム」を統合する方向が目指され、聴衆の参加する場 (field)、共同性が意識されていく。“Deep Image” に対するこうした認識の違いは、両詩人のその後の営みの違いを映し出している。本発表では Bly と Rothenberg の初期詩篇、彼らが主宰、編集した詩誌やアンソロジーなどを通して、こうした点についての検証を試みた。
報告者・司会者: 野阪 政司 (北海道大学)
報告
今回の発表において、松田寿一氏は1950年代末から60年代にかけての “Deep Image Poetry” をめぐって、二人の詩人、Robert Bly と Jerome Rothenberg をとりあげながら、それぞれの詩人の活動の全体像を背景にして、それぞれの “Deep Image” についての認識の違いを浮き彫りにしようという検証を試みた。
“Deep Image” の詩人として一般的に挙げられる詩人たちに Bly が含まれるのは当然であるとして、Rothenberg がその中心的存在の一人として挙げられることは少ないというのが報告者の視点である。従って、今回の松田氏の発表は、Bly の “Deep Image” について考察するための比較検証の対象に Rothenberg を取り上げたこと自体に挑戦的な意味があると考えることができる。
松田氏は、詩の研究者が少ない現状に配慮をしてのことと推察したが、Ezra Pound における “Image” への傾斜の背景に触れ、Charles Olson の投射詩論や Gary Snyder による Bly への高い評価などに言及しつつ、“Deep Image” が “Image” 一般とどのような差異を持つものかという点について丁寧な解説を加えた。
Bly と Rothenberg のそれぞれの活動において、二人の詩人の活動時期による詩の傾向の変遷を指摘しながら、松田氏はそれぞれの作品発表の基盤として機能した雑誌の傾向、そこに収録された詩人たちの違いを検証し、詩篇そのものの解読を通じて “Deep Image” がどのように作品世界に関与しているかを示そうと試みた。その検証の過程で、雑誌、詩集、詩人本人の朗読の映像や音源など、多様で豊富な資料を駆使して、“Deep Image” の解明を求めて詩の深層まで参加者の意識を導く松田氏の展開は、詩の発生の現場に近づけるところまで近づこうとする意図を実現しようとするかのような気配を感じさせるものであった。
しかしながら、検証の対象である “Deep Image” が “Image” とどのように違うのか、また Bly と Rothenberg の認識の違いはどうであるのか、などの点については、さらに検証が必要だと思われる。とりわけ、“Deep Image” と “Image” とを対照的に論じながら、その差異を曖昧にさせかねないところがあったこと、また Rothenberg の分析をする過程で、Robert Kelly を引用するときなどに Kelly の指摘がそのまま Rothenberg の認識であるかのように読んだり、“Deep Image” の優勢な時期とは異なる傾向の時期の活動への言及が “Deep Image” への関係の明示化に結びつかない面があったりしたことが惜しまれる。このような点についてさらに考察を加えての続編の発表を期待したい。
とはいえ、参加者の多くに馴染みの少ない詩人たちについて、さまざまな資料を通じて丁寧に検証しようとした今回の発表はアメリカ現代詩の展開の伏流を目に見えるものとさせてくれる優れた契機となったと思う。
報告者: 上西 哲雄 (東京工業大学)
報告
松田寿一氏による Robert Bly、Jerome Rothenberg という二人の詩人を中心とする “Deep Image” という詩の概念を巡っての発表はよく整理されていて、詩には全くの素人である筆者にも分かりやすく聞くことができた。加えて、司会者の労をとられた詩の研究者としては第一人者である野坂政司氏が的確に解説を加えて頂いたので、少し詩に詳しくなったような気分になれた。
Deep Image なるものが、二十世紀初頭にモダニズムの先駆けのように登場した imagism を絵画主義的と排したというのは、imagism を学生時代に文学史の授業で学んだ際に、不遜にも、所詮は俳句の写生などと思ったことを思い出した。では、そうではなくて本当のイメージ、deep image とは何なのか。言葉にすることが研究なのだろうが、結局いまだに私は言葉で説明できない。しかし、松田氏による具体的な詩の引用は私にとって的確で、私の中に松田さんの伝えたい、それこそ deep image が届いた(と思う。誤解かもしれないが)。
たとえば、Bly の “Snow full in the afternoon” の一節。
If I reached my hands down, near the earth,
I could take handfuls of darkness!
A darkness was always there, which we never noticed.
この darkness は、私にとっては風景としての暗闇にはとても感じられない。
あるいは、同じく Blyの “Driving Toward the Lac Qui Parle River” の畑作地帯を走る車のイメージ。
This solitude covered with iron
Moves through the fields of night
Penetrated by the noises of crickets.
この solitude は先の darkness と同じように、日常的な風景に黒々とした異界への穴を開け、そこから違和感を心に浸潤させる。
なんて、詩の研究者になった錯覚を覚えさせる、巧みな詩の紹介だった。
発表の構成は、Bly と Rothenberg が共に Deep Image を主張していることをエッセイなどから示し、それが詩にどのように表れているかを紹介しつつ、更には両者の違いを指摘し、他の deep imagist とでも呼べるような詩人を紹介するというものである。
野坂氏からは、この発表で質問すべきはそこではなくて・・・と言われてしまったのだが、この議論の構成から私は松田さんの発表のポイントを、Bly と Rothenberg が deep image を主張するところから始まったものの、Bly は deep image を口にしなくなり Rothenberg は身体性を強調するようになるというように、違いが出てきたということではないかと受け止めた。そう指摘するからには、そうした違いを抱え込んだ上での deep image とは何なのか――これは私にとって当然の疑問だ。このようにイズムに括られる作家達が実際には多様なものを持つこと。これをどう処理するのかは重要なテーマではないかと思う。
くだんの「この発表で質問すべき」は、実は Rothenberg が一般には deep imagist として扱われることが無いということであった。むしろ、Rothenberg を deep imagist として Bly と並べたところが斬新であると。なるほど。
今回松田氏が紹介した詩の中で私が最も気に入った Rothenberg の次の一節。これは間違いなく deep image として「私の心に入って来た」。
An icicle broke from the sky
And entered my heart.
The moon was a spider.
(“The night the Moon was a spider”)