第137回研究談話会 平成21年7月18日・藤女子大学
Fitzgerald と空間の比喩――Tender Is the Night における旅と精神分析
発表者: 井手 達郎 (北海道大学大学院)
要旨
本発表は、Fitzgerald の Tender Is the Night (1934、改訂版 1951) における「旅」と「精神分析」を、空間の比喩という視点と関連づけて考察した。それまで Fitzgerald が希望を込めて書いていた、象徴としての「西部」を目指す移動や想像力の終焉が描かれていること、しかし同時に、その行き詰まりの状況の「外」を目指す運動が、特に垂直の運動としてほのめかされていることを、一見ばらばらに見える二つのモチーフの分析を通して明らかにすることを試みた。
この空間の主題は、20世紀全体における空間の想像力の変容を背景として考えることができる。フロンティアの消滅、交通機関やメディアの発展、第一次世界大戦といった出来事は、かつては遠くにありて思うものだった場所を一気に接続させていった。世界はひとつの移動可能な領域となり、地理的に、あるいは心情的に彼方にあった場所は、「均質で普遍的な空間」に取って代わられることになった。
作品に描かれる旅と精神分析は、どちらもともに、この均質的な空間に結びつけられている。旅をめぐっては、頻繁で大掛かりな移動と対照的に、遠さの感覚の欠如が強調され、その原因として、映画、戦争、資本といった、異なる場所をひとつの空間へ回収していく力が描出される。精神分析をめぐっては、人間の内面を空間に見立てつつ、構図としてはまったく同様に、その未知の部分をひとつの体系的な認識の空間に閉じ込めていこうとする過程が描かれる。
しかしその一方で、この均質的な空間の「外」へ出ようとする運動の可能性も示唆されている。それは、主人公の “Diver” (潜る人)が暗示するように、「西部」を目指すという水平な方向ではなく、垂直の方向において示される。表面的には失墜や転落といった消極的な意味に思えるその運動は、主人公が旅と精神分析そのものから離れていく決定的な契機になっており、その点において、「西部」に代わるべき「外」を目指す探求の試みとしての、積極的な意味合いを含んでいる。
報告者・司会者: 上西 哲雄 (東京工業大学)
報告
今回発表された井出達郎氏は、北海道大学大学院博士課程に在籍して博士論文の準備を進める、アメリカ文学会北海道支部の若手のホープである。当初 Steve Erickson といった現代文学から読み始められたようだが、研究の関心は2005年頃より William Faulkner に移り、近年は The Sound and the Fury などを中心に口頭発表や研究論文の執筆を重ねて来られた。
そもそも現代文学を読まれている頃から主に「記憶」や「歴史」を手掛かりに時間や語りの問題に取組まれていて、そこからアメリカン・モダニズムの巨匠とも呼ぶべき Faulkner に対象を移されたのは、良い意味で野心的であると同時に正当な筋道であったと言うべきだろう。今後とも Faulkner は自らの研究の礎とされるのであろうが、ここに来て新たに F. Scott Fitzgerald にも目を向け始められている。それもオーソドックスに The Great Gatsby (1925) からではなくて、Tender Is the Night (1934) から始めたというのは、なかなか面白い。
名作とすることに大方の意見の一致を見る Gatsby とは違って Tender Is the Night は、書き込みの充実という点では Gatsby に勝るとの評価が多いものの、出来不出来の評価が割れる作品である。なかでも、物語全体のごく一部を切り出し、他の部分とは違った視点で描くエピソードとして冒頭に置いた構成については、出版後に作家本人が売れ行きが振るわないのはそのせいかと悩んだとされるほど思い切った工夫であり、これまで研究者の間でも賛否両論があった。今では、どちらが良いかというよりも、その構成が何を意味するのか、その構成によって Fitzgerald が行おうとしたことにどのような効果をもたらしているのかが議論の中心となっている。
井出氏の今回の発表は、敢てこの問題に正面から取り組んだものだ。昨今しばしば見られる、どんなテキストも自分のパタンに無理やり押し込み、物語全体の読みにはあまり影響しない議論とは正反対である。Tender に真に関心のある人の議論を誘う、爽やかな論立てであった。詳細はご本人の報告に委ねるが、議論の構成、証拠とする引用の出し方など、いずれも明快かつ説得力があった。特に、「空間の移動」という視点から物語を読み直すことで、物語全体のごく一部のエピソードを狭い視点で描く冒頭の Book 1 が実は社会全体が抱える大きな問題、すなわち加速する近代化の問題を提示する役割を務め、その後の部分は、そうした問題のひとつの具体的な例として制度としての精神病が描かれていることを浮き彫りにした手際は、鮮やかだった。これまで井出さんは記憶や歴史といった「時間」を手掛かりに物語を読むことが多かったのに対して、今回空間にこだわりを見せるのは、研究の方法論について、何か考えているところがあるのだろうと思わされた。
意を尽くした資料が配られ、丁寧で分かり易い論考であったことにも助けられて、フロアーからも積極的に意見や質問が出された。発表そのものはきちんと30分程度にまとめられたので、2時間という会の時間が持つかと司会者はつまらない心配をしたが、充実した質疑が展開されてあっと言う間に時間は過ぎてしまった。
ところで、井出氏はこれまで読んでこられた Steve Erikson、Faulkner については、いずれもアメリカ文学会全国大会において口頭発表をすることで、きちんと自らの力を試すことをされてきた。今回の発表も今秋に秋田大学で開かれる同大会で発表を予定されている。今回の談話会で参加者から頂いた様々な意見を容れて議論を更に練り上げ、全国の会員にその真価を問うてもらいたい。
報告者: 伊藤 義生 (藤女子大学)
報告
「Fitzgerald と空間の比喩――Tender Is the Night における旅と精神分析」のタイトルのもとに展開される井出達郎氏の発表は、アウトラインとして示された観点だけでも5つにも及び、更にそれが細分化されて、多岐にわたる分析の世界へと旅することとなった。
限られた紙幅の中ではカバーしきれない範囲の広さ故に、井出氏の発表、司会の上西哲雄氏からの補足やコメント、そしてフロアーから寄せられた発言のいくつかを取り上げて、この報告としたい。
井出氏は、この作品の二つの版 (1934年版と1951年版) のうち、1934年のオリジナル版によって分析を試みたが、司会の上西氏から、二つの版について、今ではフラッシュ・バック手法によるオリジナル作品の方が、Fitzgerald の死後、Malcolm Cowley によって時系列のストーリーに改編された1951年版よりも優れているとされていること、また、この作品を傑作とされる The Great Gatsby よりも高く評価する声もあることが補足として紹介された。
井出氏は、Fitzgerald を「西部」を意識していた作家と位置づけ、この作品では、The Great Gatsby などで提示される西部への回帰、すなわち夢の実現の可能性を残す空間と精神的よりどころとしての「西部」の探求が「意味を失い始め」、他方、「新しい空間」を模索する姿が主人公 Dick Diver を通して描かれているとする。
井出氏は、「20世紀前半における空間の変容:均質で普遍的な空間の出現」、あるいは「場所を結びつける想像力」というポイントで、それを生み出す要因として、交通機関の発達、映画の隆盛、第一次世界大戦をあげ、これらがもたらした物理的、意識的空間の収縮を指摘している。
この作品はヨーロッパを舞台に、アメリカ人精神科医 Dick Diver がその患者である Nicole と結婚し、主治医でかつ夫という状況が Nicole の病気の回復と共に次第に変容していく有様が描かれている。Nicole の精神障害が過去の不幸な出来事に起因する点が暗示され、物語の展開される時代が1910〜20年代であることから、井出氏はフロイトの精神分析との関連も取り上げた。これは大きな論点であるので、いずれ発表される論文の中で詳述されるのを待ちたい。また、自己を作品に投影するタイプの Fitzgerald にとって、妻 Zelda の精神疾患の発病と療養生活がこの作品の背景にあることも補足説明された。
井出氏は、作品中の色々なエピソードに Dick Diver の垂直あるいは水平の運動、移動のイメージを読み取り、例えば、彼の山登り、水上スキーの再三の失敗、自動車事故などの場面では、Dick の肉体や精神が上昇方向にあるのか、あるいは下降方向なのかを表しているのではないかと述べた。
井出氏の多岐にわたる興味深い発表に対してフロアーから活発な発言が出された。例えば、タイトルに採られている John Keats の詩 “Ode to a Nightingale” の第4スタンザについての様々な解釈が出たが、その関連でイギリス・ロマン主義とアメリカ・ロマン主義への言及もあった。
この作品において、本国を離れヨーロッパで生活する富裕なアメリカ人たちが、何事も金で解決しようとする傲慢さは、Dick を金で雇ったお抱え医師程度にしか見ていない Nicole の姉 Baby Warren に典型的に表れている。特に Nicole が回復した後は、Dick を用済みとみなす態度に、その冷徹振りが如実に示されているとの指摘もあった。この作品が出版された1934年当時は世界大恐慌のさなかにあり、ヨーロッパで金にあかせて気ままに暮すアメリカ人の生態を描くこの作品が、好意的に受け入れられなかったのは首肯出来るとの感想も述べられた。
最終章で、Nicole と別れアメリカに帰ってニューヨーク州内の町を転々とする Dick Diver
の姿に、最早向かうべき「西部」は消滅し、やがては闇に消えていく没落の過程と見るのか、あるいは、ガレーナ時代のグラント将軍に例えられる記述が二度現れることからも、今は雌伏の時としてとらえ、再起の可能性を示唆する希望的展開と考えるかの解釈が各々提示された。
この他、Diver というネーミングの含意や、Fitzgerald と Hemingway がお互い相手をどのように見ていたかなどのエピソードも紹介された。
本発表において、井出氏は作品を綿密に読み込んでいるが故に、時には場面の解釈やイメージにおいて思い入れの強さがうかがわれる点も散見されたが、この作品への新たなアプローチを意欲的に試みようとしたことを十分にうかがわせるものであった。フロアーから数多くの発言があったが、それはとりもなおさず、この作品が種々の角度からの検証が可能な作品であり、今後の研究に資する問題提起がなされたともいえよう。