第138回研究談話会 平成21年8月22日・藤女子大学
食とジェンダー:もう一つの “Big Two-Hearted River”
発表者: 瀬名波 栄潤 (北海道大学)
要旨
Ernest Hemingway の初期の短編 “Big Two-Hearted River” は、作家の氷山の理論をもっとも効果的に用いた作品の一つであり、これまで様々な読みが試みられてきた。その際、「バッタ」、「川」、「マス釣り」、「沼地」は重要なカギとなり作品解釈上の起点となった。結果、作品単独だけではなく、「In Our Time の最終章としての役割」、「伝記的要素」、「ニックの成長物語」としての視点も加わり、ヘミングウェイの代表的な作品としての確固たる地位を築いてきた。
にもかかわらず、この作品で詳述される「料理」についてはあまりにも軽視されてきた感がある。“Nick was hungry. He didn't believe he had ever been hungrier” に表現されるように、主人公の食欲が作品の主題であると言っても過言ではない。生への執着や再生への可能性を示唆しているのは明らかだ。ならば、この旅において目的であったはずの鱒を釣りあげ、それを作中で食べさせてあげれば話は済むことであっただろう。ところが、主人公は魚を食すことはない。そのかわり、彼は自らアプリコットやポーク&ビーンズそれにスパゲティーの缶詰を開け料理を始める。
本発表では、Nick Adamsがキャンプで料理することの意味について、食文化や当時の少年文化の視点から検証した。前者ではイタリア系新移民の料理と加工食産業に焦点を当て、後者ではYMCAとボーイスカウトに代表される少年神話構築の理想と実話を検証した。これら二つの
cultural representations をとおして、作品の中でヘミングウェイが描き出すもの、つまり実話と虚構の negotiation を考察した。
これらをとおして見えてくるのは、20世紀初期の新移民によって作られた新たな食文化・食産業に支えられて、ニックは少年神話を実践しているかのように振る舞ってはみるものの、実は当時のアメリカのどこにでもいたかもしれない、気弱でリスクマネージメントのできない『新しい少年』の像を Hemingway は描いていたのかもしれない、と言うことである。ただ、Hemingway は弱者である主人公の物語を、氷山の理論により「敗者の美学」へと変換させることにより、literary negotiation には成功していると言える。
報告者・司会者: 新関 芳生 (関西学院大学)
報告
Ernest Hemingway の “Big Two-Hearted River” は、おそらくこの作者の全短編の中で、最も詳細に解釈されてきたテクストだと言ってよい。マス釣りを兼ねたキャンプの様子を淡々と描いただけの物語であり、そこでは何ら事件が起こるわけでもないが、ここでの Nick の姿に、第一次世界大戦での負傷によるトラウマを読み込んだ Philip Young 以降は、 Nick がキャンプと釣りを通して、このトラウマを克服しようと試みているという解釈が主流となってきた。
今回の発表において瀬名波氏は、このような従来の解釈の方向性とはまったく異なる視点、すなわち、このテクストにおける「食・料理」の表象性を中心にすえ、そこにジェンダーを絡めて読み直すという解釈を試みた。過去の研究において、このテクストの食が取り上げられてこなかったわけではないが、多くの場合その解釈は、料理や食品の象徴的な意味を明らかにしようとするものであって、representation としての意味は、ほぼ盲点になっていたと言ってよい。その点において、氏が発表で教示してくださった、アメリカにおける加工食品の歴史に関する知識は、この短編小説の解釈に斬新なくさびを打ち込む可能性を秘めたものであった。また、キャンプというモチーフに関して、アメリカにおけるYMCAとボーイスカウトの歴史をもとに、これらの団体が行っていたキャンプにおいては、実際には、野外生活に適応できない「都会っ子」たちが多数いたという興味深い事実が指摘され、当時の少年文化の中に実は脆弱さが潜んでいたことが明らかにされた。こうしたコンテクストから瀬名波氏は、この短編における Nick を、「実は当時のアメリカのどこにでもいたかもしれない、気弱でリスクマネージメントのできない『新しい少年』の像を描いていたのかもしれない」と解釈し、これまでの研究において定説となりつつあった Nick とはまったく異なった姿を導き出した。
戦争によるトラウマで、異常なまでに繊細になっているとはいえ、このテクストにおける Nick をひ弱な姿としてとらえた解釈はこれまでなかったと思われる。その点において、今回の瀬名波氏の発表は、かなり大きな問題提起を行うものであった。また、加工食品産業の歴史と、アメリカにおけるYMCAおよびボーイスカウトの創設に関する経緯、さらに Hemingway に関する伝記的事実から、Chicago という共通項を導きだしたのも大変刺激的であった。かつて Carl Sandburg が描き出した、猥雑な生命力にあふれる Chicago に、健全な少年文化を生み出そうとする動きが胎動していた事実は、この都市の近郊の Oak Park で生まれ育った Hemingway (とその分身的なキャラクターである Nick) の精神形成を考え直す上で、考慮すべきことであろう。
司会者としては、食とジェンダー(少年神話)との関連性が、今回の発表に関する限りではいささか心許ない印象であったのは否めない。また、今回の表象的な解釈が、従来までの象徴的な解釈と出会ったときに、どのような新しい側面が見いだされるのか、それに関して何らかの言及をいただきたかった。氏が発表中何度か使っておられた “New Historicism” 的な解釈が、従来までの “New Criticism” (もしくは Structuralism 等) が試みてきた、テクストの意味の固定化をどのように揺り動かし、突き崩し、逆転させるのか、言い換えるならば、“external” と “internal” との “negotiation” が見せる刺激的で新しい様態について、今後いっそう解釈を進められることを切に希望したい。おそらく瀬名波氏も、このダイナミズムを明るみに出すべく、校務で多忙な中、頭を悩ませておられたのだろうと思われる。
報告者: 伊藤 章 (北星学園大学)
報告
夏のなごりがいまだ色濃い8月22日、北海学園大学のクーラーの効いた教室を会場に開かれた談話会は、適任の司会者も得て、充実したものとなった。なによりも発表者、瀬名波氏の切り口とアプローチが斬新であった。ヘミングウェイの名作、 “Big Two-Hearted River” は、研究し尽くされており、あまたの先行研究にいまさら付け加えるところはないように思われているが、氏は、食に注目して、ニューヒストリシズム的な新たな視点を導入しようとした。
あんなにお腹をすかせているのに、ニックはなぜ、さっさと鱒を釣り上げて食さないのだろう。なぜ、ニックはカーキー色のシャツを着用しているのだろう。野営地を入念に整えた後、ニックが食するものは、スパゲッティであるが、なぜイタリア料理なのだろう。あるいは、ニックがリュックサックのなかに詰め込んできた食料は、缶詰であったり、瓶詰めであったり、ホットケーキミックスといった加工食品ばかりである。それはなぜなのだろう。氏はこれらの問いに対して、YMCAとボーイスカウト文化、新移民としてのイタリア系、加工食品産業の中心としてのシカゴ、そういった観点から解明しようとする。刺激的な論点が矢継ぎ早に導入され、文学作品の新しい解釈に果敢に挑戦しようとする発表であった。
先行研究をしっかり踏まえたうえで、自分の論点を説得力豊かに展開し、最後に誰もが驚くような新しい解釈を披露する瀬名波氏の手際は、研究発表のモデルとなるような見事なものであった。そして、新関氏という日本を代表するヘミングウェイ研究者がわざわざ関西からかけつけ、司会進行役を務めてくれたことも今回の談話会の成功に寄与しただろう。氏は、発表者とフロアをつなぐ媒介役として、あるいは発表者が語らなかった部分を適切に補足してくれるコメンテーターとしても、司会の役を十二分に果たし、そのおかげで質問とコメントが活発に飛び交う談話会となった。両氏だけではなく、会場近くの閑静な住宅街にぽつんとある、ジャズの流れる小粋な喫茶店での懇親会をアレンジしてくれた事務局長の本城氏、そしてこの会の実質的な牽引役である幹事の松田氏にも、御礼の言葉を。「夏を締めくくるにふさわしい会でした。ありがとう。」