第140回研究談話会 平成21年11月28日・藤女子大学
宿命と自由意志――メルヴィルと『失楽園』
発表者: 平野 温美 (北見工業大学)
要旨
メルヴィル論の中でミルトンが言及されることは珍しくないが、ミルトンがどのようにメルヴィルの創作に関与しているかは明確にされてこなかった。メルヴィルの処女作『タイピー』の「謎」の解明に関連して、代表作とされる『白鯨』も取り上げ、それらをつなぐ『失楽園』の影響を明らかにしてみたいのが趣旨である。
二十世紀のメルヴィルリバイバル以後、『タイピー』の主題研究の焦点は、楽園と見えた谷から最後になぜ主人公は逃げ出したかであった。その理由の判明には、作品が非常に意図的に構築されていることを知らなければならない。物語には相矛盾するタイピー人の姿、すなわちルソー的高貴な野蛮人像と残忍な食人種像が主人公の口を通して語られる。主人公を作者の分身として、見られる対象としてタイピー人を解釈すると、メルヴィルの意図から遠くなる。作中の事件の展開を時系列に見ると、矛盾する姿は主人公の見地から由来するもので、見られる対象に由来するものではないことが分かる。
メルヴィルの主人公の創造には、1813年にタイピー谷を襲撃し大虐殺を行ったキャプテン・デイヴィッド・ポーターの著書、『太平洋航海記』とミルトン著『失楽園』の影響があることが、テキスト間研究で明らかだというのが私の議論である。船からの主人公の逃亡は伝統的ピューリタンの神からの逃亡を暗示し、楽園のような谷に降りる主人公は、無垢なる人々に楽園を失わせた存在としての象徴的役割が付与される。南太平洋の島民が西洋文明到来で被った破壊の歴史が、失楽園の神話を秘めた主人公の冒険の中に織り込まれる。
主人公の逃亡と帰還はメルヴィルが彷徨った宗教的迷路と関連する。それは『失楽園』に出てくる「宿命と自由意志」の問題である。後に書かれた『白鯨』のテーマも同様で、エイハブの闘いは神の最高権と人間の自由の葛藤を表している。自由意志を貫いて宿命の連鎖を断ち切るべくモービー・ディックを追跡するが、死闘直前の「交響曲」の章で、エイハブは突如「もしや」森羅万象は天なる存在によって動かされているのではないかという沈思に襲われる。一方イシュマエルは人生を「無意識、盲信、迷い、懐疑、不信、もしも」と辿っては繰り返す循環する航海と捉える。エイハブの闘いをイシュマエルも共鳴するが、エイハブの悲劇的試みはイシュマエルの繰り返しの過程に入ってゆく。
『タイピー』の結末も『白鯨』のそれも、同じく予定された摂理の成就で終わる。これが「宿命と自由意志」の問題に対するメルヴィルの解である。自由意志で行動を起こしたが、『タイピー』の主人公は逃げ出したところとほぼ同じ地点に逃げ戻ってしまう。『白鯨』のイシュマエルも自分の行動は「とうの昔に作成された摂理の大予定の一部」だったと述懐する。ミルトンを意識したメルヴィルの世界観が作品を構成しているといえよう。
報告者・司会者: 伊藤 章 (北星学園大学)
要旨
平野氏の発表は、広島大学に本年提出し、受理された博士号論文、“Typee and Beyond: The Dynamics of History, Fiction and Myth” の概要を紹介するというものであった。狙いとしては、メルヴィルの『タイピー』と『白鯨』にミルトンの『失楽園』の影響を聞き取り、メルヴィル解釈に新境地を拓こうという野心的で大胆なものである。比較文学的なアプローチを駆使しての、スケールの大きな発表を門外漢の司会者がどれだけ消化できたかはいささかおぼつかないが、刺激的な論考に終始驚かされるわ、わくわくさせられるわで、2時間という長い時間があっという間に過ぎたように思われたものであった。
『タイピー』は謎の多い作品であるが、平野氏は本作を種本の一つであったポーターの南太平洋航海記と照らしあわせるという地道な作業を丹念に行ったのちに、メルヴィルがポーター船長に『失楽園』のサタンを重ね合わせていたのではないかという仮設を導き出す。そして、丁寧に、説得力豊かに立証する。すると、『タイピー』の謎の多くが解明されるのである。このくだりは圧巻であった。『白鯨』についても、この時期のメルヴィルの信仰はすでにカルヴィニズム的なものではなかったが、けっしてキリスト教信仰から離れたわけではなかったことを、『失楽園』とのテキスト間研究で明らかにしようとする。そのうえで、メルヴィルが『失楽園』の一節にあるように「宿命や自由意志、絶対的余地」の迷路をさまよっていたという結論につなげるところも、聞き応えがあった。
それにしても、還暦をすぎてから膨大な時間とほとばしるエネルギーを傾注して博士論文を書き上げた平野氏に、満腔の敬意を表したい。しかも先行研究をしっかり踏まえながら、少しでもその先に進もう、少しでもオリジナルであろう、少しでも作家の本質に肉迫しようする姿勢には敬服するばかりである。