第144 回研究談話会 平成22年6月19日・北海学園大学
Taming of the Tomboy and Her Queer Resistance: Reading the Unspoken Fear/Desire
in The Member of the Wedding
マッカラーズの『結婚式のメンバー』再読
発表者: 松井 美穂 (札幌市立大学)
要旨
本発表では、カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』 (1946) をとりあげる。この物語は、 tomboy である12才の主人公フランキーが兄の結婚を通して、ナイーブな子ども時代から成人の世界へと一歩参入するという、少女の成長物語 (coming-of-age narrative) である。多くの批評家は、この小説の結末においてフランキーは両性具有的な tomboy の世界をあきらめ、従来のジェンダー規範にそう女性性を身につけると解釈する。本発表ではそのような読みに対して、フランキーのジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティは結末においても曖昧であり、むしろ家父長制とその異性愛主義を攪乱するクィアなアイデンティティが見いだされることを主張したい。その際、同じマッカラーズの tomboy である『心は孤独な旅人』 (1940) のミックと比較し、両者の成長過程および異性愛を基盤とした性規範に対する態度の相違を検討する。さらに、従来、伝統的な性規範へとフランキーを導くと考えられていた黒人の家政婦ベレニスのフランキーの sexual orientation における曖昧な、むしろクィアとも言える役割について分析する。最後に物語の結末を再検討し、フランキーの新たな友人メアリー・リトルジョンとの関係におけるホモソーシャル/ホモセクシュアルな欲望の、異性愛主義における攪乱的意味を探り、最終的にはフランキーの女性化/異性愛化は未完成なのであり、そこには、あらたな性
主体の可能性が見いだされることを指摘する。
時間が許せば、結末が小説よりも異性愛的な側面を強調しているように見える、映画版『結婚式のメンバー』 (1952) と小説を比較し、当時の南部、あるいはアメリカにおける支配的なセクシュアリティ体制と作家の緊張関係について、それがどのように作品に反映されているか検討したい。
報告者:司会 伊藤 章 (北星学園大学)
要旨
急に蒸し暑くなりはじめた先週の土曜日(6月19日)、久しぶりに北海学園大学を会場に、第144 回研究談話会が開催された。発表者と司会を含めても、14人の小さな会であったが、東京から駆けつけてくれた会員もいたり、健康を取り戻された様子の元支部長もまじっていたり、時間を延長するほどの発表の充実ぶりであったり、会場近くの住宅街にある民家風のカフェでの慰労会もあいまって、初夏の楽しいひと時を過ごしたのであった。
発表者の主張は明快である。松井氏自身もそうであったが、多くの批評家が、主人公フランキーは最後にはトムボーイを脱して、社会が要請するジェンダー規範を身につけると解釈するのに対して、あらためてテキストに向き合ってみると、そうではなく、主人公のジェンダー・アイデンティティはエンディングにおいても曖昧であり、むしろ異性愛主義を撹乱するクィアなアイデンティティが見出されるのではないか、と主張する。この主張を論証するために、松井氏は、テキストの空所や曖昧化されている部分を、丁寧にかつ綿密に読み解くことによって埋めていく、あるいは明らかにしていくだけではなく、いままで注目されなかったベレニース(ベレナイシ)の役割を分析したり、文化史的な研究も参照したり、クィア批評の成果を取り入れたり、『心は孤独な旅人』のヒロイン、ミックと比較したり、映画版と比較したり、十分に説得力のある論証をおこなった。研究のお手本といえるくらい、手堅く、スケールの大きな発表であった。
アメリカ文学においては従来より、男の子の成長物語をむやみに持ち上げ、アメリカ文学の本流に位置づける傾向があったが、少女のより複雑で困難な成長物語をもっともっと評価し、アメリカ文学の中心に据えることの重要性をいまさらながら実感した発表でもあった。それだけではなく、司会者の私自身、マッカラーズを十年ぶりくらいで読んでみて、彼女の異能ぶりを再認識させられた。完成度の高さでは『結婚式のメンバー』がうえであろうが、処女作の『心は孤独な旅人』は読みながら、私の好きなアメリカ小説ベストテンに入る傑作だなあと、しみじみ思ったものである。その点でも発表者に感謝したい。