第145 回研究談話会 平成22年7月31日・札幌市立大学サテライト・キャンパス
ヘミングウェイと禁酒法――
『日はまた昇る』および「ワイオミングのワイン」に見るヘミングウェイの人種意識
発表者: 本荘 忠大 (旭川高等工業専門学校) 司 会: 片山 厚
要旨
Kathleen Drowne は、著書 Spirits of Defiance: National Prohibition and Jazz Age Literature, 1920-1933 (2005) において、合衆国憲法修正第18条に載る全米的な禁酒法が施行されていた当時、大衆雑誌や人気小説の多くが、禁酒法を遵守する保守的なミドル・クラスの読者層の要求を満たすものであったが、それらのほとんどは今や忘れ去られたものとなったこと、そして現在に至るまで読み継がれ、評価されてきた小説の大部分において、飲酒行為はあくまでも普通の大人が楽しむ気晴らしのような活動として描かれており、作者による禁酒法に潜む政治性に対する何らかの批判、説明あるいは正当化がなされることもあまりないと指摘している (Drowne 3-4)。確かに、 Ernest Hemingway による数多くの作品においても、登場人物たちが醸造酒や蒸留酒を楽しむ様子は克明に描かれているが、禁酒法に潜む政治的な意図の一側面として、この法律が20世紀初頭に引き起こされた人種上の再編に対抗して、従来の社会的秩序を維持しようとするイデオロギーの刷り込み装置として機能していた点は、作品においてどのように表象されているのだろうか。
本発表では、まず健康、道徳、敬虔という名のもとに社会統制を行うことを目的として成立した禁酒法の背景に存在していた一つの考え方、すなわち飲酒の習慣や文化と結びつくカトリック教徒を始めとする新移民を排除しようとする狭隘なアメリカニズムに着目する。そしてこのような歴史的事実を踏まえた上で、語り手がともにカトリック教徒として登場する The Sun Also Rises (1926) および “Wine of Wyoming” (1933) における飲酒の描かれ方を分析する。一方で、Hemingway の伝記的背景(イタリアの前線応急手当所におけるカトリック神父との出会いが、その後の Hemingway のカトリック志向に大きな影響を与えたこと。そして1927年に2番目の妻 Pauline Pfeiffer と結婚するに際して、カトリックに改宗していることなど)も考慮に入れながら、禁酒法の底流に潜んでいた旧来の西・北欧系移民の意図(カトリック教徒を始めとする新移民の飲酒の習慣を排除しようとする考え方)に対して、Hemingway がどのような姿勢を保持し、またそれはどのようなかたちで作品に投影されているのかについて究明したい。
報告者: 松井 美穂 (札幌市立大学)
要旨
アメリカにおける1920年代のモダニズム期がちょうど禁酒法の時代と重なるということは、意外と忘れがちな事実であるように思える。今回の引用によると、1919年には文学に対する禁酒法の影響(「禁酒法が文学を “dry” にする」)が指摘されていたようだが、その予想は当たらなかったようであるし、そもそも酒の密造や密造者をプロットやキャラクターの中に取り込むことがあっても、禁酒法そのものを真っ向から扱う作品はあまりなかったのではないか。
今回の本荘氏の発表は、この一見作家たちが表立って問題視しなかったようにみえる禁酒法の背後にある当時の移民をめぐる政治的言説、つまり、旧移民が新移民を他者化し、排除することで自らの whiteness を確立しようとするアメリカニズムに着目し、それがヘミングウェイの作品にどう投影されているかを綿密に分析したものである。20世紀初頭は19世紀末から増え続けた新移民(イタリア、ユダヤ、ポーランド移民)の脅威が増大した時期であるが、禁酒法の裏には、実は、旧移民(ドイツ、アングロ・サクソン)による飲酒を厭わない、特にカトリック系の新移民排除と、新移民の増加と彼らの白人化が進む中で危うくなって来た、アングロ・サクソンの自らの白人性の保持という政治的意図があった。発表では自らカトリックに改宗したヘミングウェイが、この人種と宗教の問題と密接につながっていた禁酒法に対してどのような姿勢をとっていたのか、そしてそれがどのように作品で表象されているのかについて、短編 “Wine of Wyoming” と長編 The Sun Also Rises の分析を通して詳細に示された。
「ワイオミングのワイン」は、ワインやビールを製造しているフランス系のフォンタン夫妻と語り手の交流が、いつものヘミングウェイ的な会話と行為の描写によって語られていくが、本荘氏はこの行為と会話の深層に、禁酒法と人種をめぐる言説が潜んでいることを読み取る。特にフォンタン夫妻と同じカトリックの語り手の人種的・宗教的立場は微妙であり、彼の禁酒法をめぐって批判的でありながらも時により(カトリックと関連すると)それを遵守しようとする姿勢は、彼が旧移民の「白人性」を内面化した(つまり新移民を他者としてみる)カトリック教徒、という矛盾したアイデンティティを体現していることを意味している。『日はまた昇る』の主人公ジェイクもカトリックであるが、その言動を通して読み取れる彼の人種的・宗教的アイデンティティはやはり曖昧である。特にユダヤ人コーンとの関係においてジェイクは彼を人種的他者と意識することで自らのカトリック教徒としての他者性を覆い隠し、自身の立場をプロテスタントの旧移民側におくことになる。このように「白人」と「非白人」の境界を時に越境し、カトリックでありながらプロテスタントの旧移民の側に加担する人物を描いたことは、自身プロテスタントの旧移民の町出身という出自を越境してカトリックとなったヘミングウェイが、禁酒法を巡る旧移民の意図に対して、反対の立場も中立的立場も取り得なかったことを示しており、結論として本荘氏は、ヘミングウェイの人種意識は、人種や宗教の境界をこえての交渉や比較を繰り返す中でたどる、より複雑なアイデンティティ構築のプロセスに見いだせるのだと指摘した。
今回の発表は、当時の禁酒法、人種、宗教をめぐる社会的背景、またヘミングウェイの伝記的背景などの詳細な分析を基盤に展開された緻密な論で、短編だけでも一本の論文になると思われるくらい内容の充実した発表であり、フロアからも様々な質問がでて活発な質疑応答がなされた。単純に「ヘミングウェイの登場人物はよくお酒を飲む」としか認識していなかった報告者にとっては、新たなヘミングウェイの読み方を示してもらっただけではなく、アメリカ社会における飲酒の意味の複雑さ、そしてその考察が重要であることを教えられた発表であった。