第146 回研究談話会  平成22年9月18日・札幌市立大学サテライト・キャンパス

   

John Irving の小説における親子関係と書くという行為


   

      発表者: 赤間 荘太 (北海道大学大学院)


 

要旨


 本発表では、John Irving の作品における親と子の関係を、書くという行為と結び付けて考察をしていく。彼の作品の中の多くの主人公は孤児であるか、もしくは片親のみしか持っていない。また、子は親の思想に対しては異なる意見を有しているが、親の死後になってそれを受け入れ、親の分身のように機能をするという特徴がある。
 Irving の家族観については Desmond F. McCarthy や Susan Gilbert などが考察をしているが、特に作品の中の親と子の関係について詳細に分析をした論文は僅少である。本発表ではその関係について、Harold Bloom が Irving の代表作であると述べた三作品、The World According to Garp (1978), The Hotel New Hampshire (1981), 及び The Cider House Rules (1985) を用いて検証をしていきたい。
 Irving の小説においては、両親と子という関係よりも、片親と子という一対一の関係が描かれることが多い。The World According to Garp では主人公 Garp の父親は母親である Jenny にとって出産のための道具に過ぎず、彼は子を残した直後に死亡している。The Hotel New Hampshire の母親は飛行機事故により死亡して、主人公 John には父親のみが残される。The Cider House Rules において、Dr. Larch は孤児である Homer にとって疑似的な父親となり彼を自分の後継者となるように育てようと試みている。
 親と子とつなぐ鍵として重要なのが、書くという行為である。子をもうけることと書くことは、どちらも自らの生物学的/文化的な分身をつくるという生産的な行為である。また、小説を生み出すという行為も、Irving の小説の親子関係と同様に片親と子(作者と小説)という一対一の関係である。The World According to Garp においては Garp とその母親が作家であり、二人はその執筆活動を同時に開始している。The Hotel New Hampshire では、次男の John が語り手として理想主義者である父親を描き続ける。また、The Cider House Rules では Dr. Larch のジャーナルが彼とその養子である Homer をつなぐ重要なカギとなっている。
 本発表では、John Irving の小説における親子関係を書くという行為と結び付けて分析をし、さらに作者の伝記的な事実などを考察することにより、作家としての Irving 像を新たな視点で検証をしていく。



   

      報告者・司会: 藤井    光  (同志社大学)


 

要旨


 アーヴィングを対象として研究を続けてきた赤間氏は、将来的にはジョン・スタインベックへと研究対象を移す計画であり、今回の発表はいわば氏のアーヴィング研究の総決算といえる。
 赤間氏の発表は、アーヴィングの作家としての名声を確立するものとなった三つの小説、『ガープの世界』、『ホテル・ニューハンプシャー』、そして『サイダーハウス・ルール』を取り上げ、それらのテクストに共通して見られる、親子関係と「書く」という行為をめぐるアーヴィングの思考を明らかにすることを試みた。赤間氏にはこれまでにも、『ガープの世界』を貫くストア哲学の思考を考察した論文がある。今回の発表は、氏の持ち味である、テクストに一貫する論理を探り出す試みを複数の小説において行ったものであると言える。
 まず、アーヴィングにおける「親子」が、一般的な観念とは異なっていることが議論の出発点となった。赤間氏はそれを、生物学的な親子の形ではなく、文化的な伝達が優先される「分身関係」である、と論じた。『ガープの世界』において、性行為が常に死と結びつけられるという点や、『ホテル・ニューハンプシャー』の家族を襲う悲劇、孤児である『サイダーハウス・ルール』のホーマー・ウェルズなど、のテクストはいずれも、子どもをもうけるということに対しては否定的であると言える。それに代わるような手段として、アーヴィングにおいては「書く」という行為が肯定される、という点が、発表の中核をなす議論である。次第に欲望に否定的になるT・S・ガープの軌跡や、父親の幻想をおとぎ話として昇華する『ホテル・ニューハンプシャー』の語り手ジョン、育ての親であるラーチ医師が書き残した歴史を演じることを選択するホーマーの姿からは、「書く」という行為が親子関係を構築するものとなっている。この親子関係は、作者であるアーヴィング自身が、実の父親が不在であるために、父親像については想像に頼る以外になかったことを反映するものであるとして、赤間氏の議論は締めくくられた。
 個々のテクストの豊穣さで知られるアーヴィングの小説を三つ取り上げ、ひとつの議論をまとめることは、困難な作業であることは間違いない。さらには、アーヴィングの小説自体が、ポストモダニズムからジェンダーの問題まで、さまざまな議論を巻き起こしてきたこともあり、フロアからも多岐にわたる問題提起がなされた。テクストの読みに関するものでは、三つの小説テクストの間の共通点と同時に、差異も見逃せないという指摘があった。個々のテクストの特性を見極めたうえで、それらをどう接続していくのか、それがアーヴィングの創作の変遷について何を物語っているのかを考察することは課題として残されたといえるが、その作業が小説について思考することの喜びを深いものにしてくれることは間違いない。コンテクストに関わる問いとしては、書くという行為と同時代のジェンダーをめぐる議論との関わりや、ディケンズを師と仰ぐアーヴィング自体の「文学的」親子関係などが取り上げられた。後者に関してはさらに、赤間氏の発表で用いられた「分身」という概念から、オリジナルである親とそのコピーである子との関係が、アーヴィングのテクストでは通念的な序列関係から逸脱することなどが注目された。
 それらの豊かな問題提起は、今回の赤間氏の議論の枠組みには収まりきらないものもある。ただし、そうした質疑からは、精読によってアーヴィングの小説の特性を見極めたうえで、作家としてのアーヴィングをアメリカ文学の中で位置づけ、アメリカ文学とは何であるのかを考えていく、という作業の重要性が浮かび上がってきたといえる。今回の発表は、これからスタインベックというもう一人の巨人に挑もうとする氏の研究に確実に寄与するものになるだろう。

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