第152 回研究談話会  平成23年7月23日・北海道大学

   

Al Purdy の詩とカナダ


   

      発表者: 松田 寿一 (北海道武蔵女子短期大学)


 

要旨


 2008年5月、Toronto 市の Queen's Park にカナダ詩人 Al Purdy (1918-2000) のブロンズ像が立てられた。プロジェクトを企画、推進したのは詩を対象分野とする Griffin 賞の設立者でスポンサーの Scott Griffin、賛同者には Margaret Atwood、Michael Ondaatje、詩人の Dennis Lee、さらに Beyond Remembering―The Collected Poems of Al Purdy (2000) の編者で Toronto 大学教授の Sam Solecki が名を連ねた。除幕式に参列した Atwood は「優れたカナダ詩人を自分たちの文化的伝統として讃えるもの」と称賛し、Purdy を英語系カナダにおける偉大な国民詩人とみなす Lee もまた「Toronto と Ontario の人々の “文化記憶の亡失 (cultural amnesia)” からの目覚め」として賛辞を送った。
 こうした発言の背景には新たな移民が人口の20%近くを占め、多文化主義政策のもと、故国の文化の保持が可能な移民国家カナダにおいてはもはや国民的一体感をもたらす歴史認識や伝統文化は失われつつあるという危機感がある。1970年代 Atwood は Survival においてカナダ文学におけるテーマの発見とその系譜を辿りながら国民のアイデンティティのヴィジョンを描いた。しかし近年になって再び、建国来の問い、すなわち「カナダ人とはだれか、そしてどのようなものになろうとしているのか」、「カナダらしさの歴史的連続性はどう保たれるのか」といった苛立ちや慨嘆にも似た問いのくすぶりが確認されるのである。
 そうした問いに対する返答はもとより問う主体によって異なった像を切り結ぶ。カナダ建国の犠牲者である先住民、アジア系移民、あるいは大平原州などへの白人としては後発の東欧からの移住者にはそれぞれのカナダ像がある。実際、Survival において仮説的に提示された「カナダ文学」における「生き延びること」というテーマもいわゆるアングロ・サクソン系の白人によって構築されたものだとの批判もある。そうした中で Atwood らは Purdy にどのようなカナダの「文化記憶」、あるいはカナダ的経験を読み取ろうとしているのか。彼らにとって、何ゆえ Purdy がカナダを代表する詩人とされるのか。また Purdy についての本格的な批評書を出版した先の賛同者の一人 Solecki はその書名において Purdy を「最後のカナダ詩人 (the last Canadian poet)」とまで形容した。本発表では近年しばしば取り上げられる Purdy について、彼がカナダ詩にとりわけ大きな影響を与えた1960年代から70年代の具体的な作品にふれながら以上のような点を探ってみたい。



   

      報告者: 野坂 政司 (北海道大学)


 

要旨


 今回の発表において、松田寿一氏は、カナダの詩人 Al Purdy (1918-2000) をとりあげて、自分の作品を朗読しているパーディの珍しい映像を披露するとともに、この詩人を研究者、詩人たちがどのように位置づけているかという点について丁寧に説明し、この詩人の作品の中で、カナダ詩にとりわけ大きな影響を与えた1960年代から70年代の作品を中心にして多くの作品を紹介してくれた。
 この詩人は、出版された詩集、散文等が40冊を超える多産な詩人であるにもかかわらず、日本ではあまり知られていない。松田氏は、新たな移民が人口の20%近くを占める移民国家カナダにおける、多文化主義政策のもとでの伝統文化喪失の危機感を背景に、文化の歴史的連続性を具体化する詩人としてパーディを位置づける Margaret Atwood や Sam Solecki などの見方を議論の前提として紹介した。
 松田氏は、そのような視点とは異なる傾向として、アトウッドのような「主流派 W.A.S.P. の視点」の視点がアジア系カナダ人である自分を人種化されたアウトサイダーとして構築しているのだと書いている Roy Kiyooka や、60年代のアメリカ詩と連動するポストモダン的な文学活動を展開し、カナダの中心的なテーマの創出に貢献することがなかった文学ニューズレター「ティッシュ」に触れ、この時期のカナダ文学の多面的な特性を詳述した。しかしながら、アトウッドやソレッキなどの視点とは異なるキヨオカやティッシュのような立場から、パーディの作品はどのように読まれることになるのか、ということについて、松田氏があまり触れなかった(ように司会者が受けとめた)ので、司会者としては、そこにさらに踏み込んでパーディの世界をより深く開示してほしかったと感じた。また、松田氏がすでに他の論文でとりあげているチャールズ・ブコウスキーとパーディの親交という興味深い事実について、発表では簡単に触れただけであったので、詩人として全くタイプの違うブコウスキーがパーディを高く評価したのは、どのような点についてであったのかということについて、司会者から質問し、松田氏の見解を披露していただいた。
 フロアからは、作品の解釈に関わる質問や、アメリカ文学から見たカナダ文学への親近性がチカーノ・チカーナ文学への親近性とどのような差異を持ちうるのかという質問などがあり、活気のある意見交換があった。
 アメリカ詩研究者にはあまり馴染みのないカナダの詩人について、さまざまな資料を通じて丁寧に紹介した今回の松田氏の発表は、パーディの存在が、地政学的にも、文化的にも接している環境で活動する多くの詩人、作家たちに通底する問題性を示しているということを教えてくれた。

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