第154 回研究談話会 平成23年9月10日・札幌市立大学
『白鯨』の海、棄子の夢
発表者: 橋本 安央 (関西学院大学)
要旨
『白鯨』(Moby-Dick; Or, the Whale) の語り手に存する棄子(すてご)意識は、彼の分身たる暴君エイハブにも共有されるところである。そうした欠損の感覚をうめるために、エイハブは、おのれを投射した白鯨に復讐をいどむ。だがそれは、本来的にいって、成就のかなわぬものである。復讐とは、他者との対等な関係をもとめるものである以上、勝利に終わるたぐいのものではないのだから。エイハブによる白鯨追跡の航海は、おのれの有限の生たる悪夢を終結させることをつうじ、復讐にピリオド記号をうつためのそれであるといってもよい。
他方、語り手イシュメールの棄子意識をめぐり、Leslie A. Fiedler は箴言にみちた名著、Love and Death in the American Novel において、ピークォド号出帆以前の陸(おか)におけるクイークェグとの関係が、彼に癒しをあたえてくれるのだという。しかしながら、海にでたのち、たとえば第87章 “The Grand Armada” において、イシュメールはクジラの母子たちの戯れと歓びを前にして、ほろりとしつつ、おのれを暴風雨が吹きまくる大西洋に喩えつつ、やけっぱちの棄子意識を吐露もする。陸におけるクイークェグの癒しと、海の人イシュメールの立ち居振る舞いに、どうにも齟齬があるようなのだ。イシュメールが感傷という「病い」から、恢復しているわけでもなさそうなのだ。
そうしたところを手がかりにして、テクストの生成過程にも目配りしつつ、二人の棄子の夢と悪夢、それらにたいする祈りの主題が、『白鯨』のなかでどのようにえがかれているのかについて、かんがえてみたい。
報告者: 本城 誠二 (北海学園大学)
要旨
橋本氏の発表は『白鯨』をめぐるイシュメールとエイハブ船長の名前の聖書的由来とそれが意味する避けられない運命についてからはじまる。まず物語の語り手イシュメールは無関心な父と継母の憎しみにより放浪を宿命としている。またエイハブ船長も両親を亡くした親なき子、つまり運命を司る神に捨てられた子として、片足を奪った白い鯨への復讐という形で宿命もしくは神または父への怒りを爆発させる。しかし白鯨は世界の不滅性、不在の父性の象徴でもあるわけだから、復讐に勝利はない。そして船上では神のごとき暴君であるエイハブ船長は、自己の狂気を冷静に分析し、破滅への航海へとかき立てる自己の憎しみを憎む。
また出来事が決定的になるか否かは、それが事後に記憶として刻印され、そして夢の中で反芻される事による。その事は、エイハブ船長の白鯨への憎しみが、足をもぎ取られた時ではなく、その後の妄想と記憶を生き直す時にこそ増幅されるという部分を取り上げて検証される。
一方捨て子意識においてエイハブ船長の分身でもあるイシュメールは、レスリー・フィードラーが指摘するようにクィークエグとの関係は同性愛とも見たてられ、それは女性の主題も織り込まれた「陸の倫理」を挑発する「海の倫理」の表出であるとする。しかしイシュメールが同時に母への憧れをも志向しているのは、海中における鯨の母子の姿への感傷的な態度にも表れている。
このようなイシュメールの物語は、母を亡くした子の受難と、母を希求する夢の物語ととらえる事ができる。そしてエイハブの白鯨への憎しみは彼の内部にもともとあった不在の父への求める気持ちの変奏であると考えられる。
以上、まとめてみましたが司会者による要約に誤解があるかも知れませんので、その点はご容赦願います。参加者は多くはありませんでしたが、活発な質疑が行われました。メルヴィルについてほとんど素人である事務局担当が司会を務めさせてもらいましたが、発表の内容の深さを充分に理解できたつもりですし、氏の文学的なレトリックも強く印象に残りました。