第155 回研究談話会 平成23年11月26日・北海学園大学
「白い血」という檻──Go Down, Moses における Ike の人種的思考
発表者: 本村 浩二 (関東学院大学)
要旨
William Faulkner の Go Down, Moses (1942) 第六章の “Delta Autumn” の終盤に、Issac [Ike] McCaslin がアメリカ社会で顕在化しつつある、異人種間の混淆と混血について、悲嘆の意を表明する、有名な場面がある。南部の貴族階級出身で、今や老人(73歳)となっている彼がそこで恐れているのは、人種的差異の喪失がもたらす混乱と無秩序である。そしてその喪失は、この老人の独自のロジックによれば、理不尽な森林破壊が引き金となって生じている。
改めて言うまでもなく、彼の、人種的差異の希求の背後には、人種の “purity” の保持という欲望がある。確かに、批評家 Thadious M. Davis が指摘しているように、彼の、世襲財産と所有権の放棄は、当時アメリカ全土で広く受け入れられていた “scientific racism“ に逆らう行為となっている。しかしながら、そのポジティヴな意味が、“Delta Autumn“ の終盤の場面における心境の表白によって、大いに否定されているのも事実である。
さて、本発表は、Ike を主人公にしている、いわゆる “the wilderness trilogy”──“The Old People”、“The Bear”、“Delta Autumn”──を主に取り上げるが、それらを従来の研究によく見られた型、つまり、主人公が荒野での神秘的なエピファニー体験に基づき、己の家系の罪深い暗部に開眼していくという、ビルドゥングスロマン(社会的、道徳的、精神的成長の物語)として読むのではない。というのも、彼の長い人生の物語には、厳密な意味で「成長」という二文字がうまく当てはまらないように思われるからだ。
この時代の人種イデオロギーに光を当てつつ、むしろ本発表で試みたいのは、“purity” と “hybridity” をキーワードに使いながら、Ike の生涯を彼自身の身体に流れているとされる「白い血」との闘争の物語として読むことである。もう少し具体的に言うなら、それは、彼が祖父から受け継いた「白い血」の呪縛にとらわれ、如何に自由になれずに、苦悩しているのかを確認することである。
こうした視点からの読みは、「白人」という人種カテゴリーの標準・規範を問うという意味で、近年盛んなホワイトネス研究が提起している問題を多少なりとも共有することになるであろう。
報告者: 平野 温美
要旨
「熊」に登場する若いアイクと「デルタの秋」の最後に現れる老アイクをいかに結ぶかは、長い間議論されてきた。幼いアイクは荒野でサム・ファーザーズからネイティヴアメリカンの儀式によって一人前の猟師と認められる経験をする。やがて祖父が冒した人種混淆と近親相姦という悪と恥を知る。悪を正し、恥を消し去ることが出来れば、少なくとも自分や子孫は避けることが出来るように、21歳の時、世襲財産と所有権を放棄するという行為に出る。それから半世紀以上を経た、「デルタの秋」の場面で、アイクは赤子を抱いた女性と対面する。アイクの財産を受け継いだいとこの子の孫であるキャロザーズ・エドモンズが、アイクの祖父が黒人に生ませた子供の子孫となる女性との間に子をもうけたのである。「シカゴへ行け、同じ黒人と結婚しろ」と老いたアイクは言い募る。
いったいアイクの何が問題だったのか。
本村氏の新しさは、アイクの人生は祖父老キャロザーズ・マッキャスリンから受け継いだ「白い血」の呪縛と、それとの闘争であったと「ピュリティ」と「ハイブリディティ」というキーワードを使って解読しておられる点である。
まず、「人種のピュリティ」はアイクにとって守らねばならないものであった。しかしながら、アイクの人種混淆への嫌悪の裏には消しがたい魅惑があるとも述べておられる。次に人種混淆と荒野の精神についての分析によると、若いアイクも年取ったアイクも、すなわちアイクはいつも荒野を耕地の対立として考えていた。二つを重ねることや、相互依存のかたちで捉えることができなかったから、荒野での経験が文明である耕地で生かすことは不可能だった。荒野とはハイブリッドの世界であると同時にピュリティの世界でもあるにもかかわらず、アイクはそこを非白人、すなわち有色人のものと位置づけている。
そこでアイクはジレンマに陥ると本村氏は重要な指摘をされた。サムから高邁な荒野の精神を獲得したにもかかわらず、アイクは大森林の真の住民になれない、なぜなら白人であるからである。アイクは森を「時間と空間から解放された」場所と受け取ったが、これは一種の逃避で、逃げることによって、かえって老キャロザーズの悪を身につけてゆく結果となる。理由は人種を「本質として固定的、具体的、客観的なものとして考える」からだ。アイクのレイシズムは「デルタの秋」でロスの愛人を前にして露呈する。またアイクの悲嘆には、荒野における理想と耕地における現実の接続に対するアイクの強い抵抗感が現れていると指摘する。はからずも「精神的にマッキャスリン家という檻にいるのはサムではなくて、むしろアイクではないか」と本村氏は結ぶ。
感想
若いアイクの行動からみると、老アイクの差別的発言は失望させるものであったとしても、アメリカ社会の現実を背景にするといくばくかは同情できるというのが40年以上前に読んだ時の私の感想であった。しかし本村氏の発表には、時代は所詮変化するものであるからして、時代との馴れ合いはなく、アイクの本来的思考の枠組みの虚を明らかにするものであった。荒野と耕地とアイクの関係性が問題であったことがよく理解できる発表であった。