The Hokkaido American Literature Society
第127回研究談話会
若手研究者のためのワークショップ 第6回
日本アメリカ文学会北海道支部



報 告 者

  赤間荘太

(北海道大学大学院)

  松浦和宏

(北海道大学大学院)

  阿賀圭祐

(北海道大学大学院)

コメンテータ

  渡部あさみ

(札幌大学)

参加者論評

  井手 達郎

(北海道大学大学院)

司 会 者

  伊藤 章

(北星学園大学)


アメリカでエスニックとして成長すること
   ――現代アメリカ女性作家の三つの短編を読む――



はじめに

 若手の研究者が日頃の研鑽の成果を発表し、それを中心に参加者が意見の交換をおこない、議論を深めるというこのワークショップは、今回の対象作品として、Maria Mazziotti Gillan & Jennifer Gillan eds., Growing Up Ethnic in America: Contemporary Fiction about Learning to be American (Penguin Books: 1999) に収載されている短編の中から次の三つを選んだ。

  1.Kathryn Nocerino, “Americanism” (1999)
  2.Naomi Shihab Nye, “Red Velvet Dress” (1999)
  3.Helena María Viramontes, “The Moths” (1985)

 イタリア系やパレスチナ系、メキシコ系などエスニック・マイノリティ(の少女)にとって、アメリカで成長するとはどういうことなのかをまず考える。外国系の両親とアメリカ生まれの子どもの間にはどういう葛藤が渦巻いているのだろう。アメリカ生まれの子どもにとって両親の祖国はどういう意味をもっているのだろう。エスニック・マイノリティはアメリカにどういう未来を託そうとしているのであろう。こうして展開するさまざまな問題意識のもとに、エスニック作家の短篇を精緻な分析を行った後、今日のアメリカの文学状況について広く理解を深めることになればよいと考えたものである。
 以下はそれぞれの発言について、当事者に委嘱してその内容を集約してもらったものである。なお、三名の発表者は、当日それぞれ三つの作品すべてに触れていたのだが、ここではひとつの作品について重点的に論じてもらった。統一のために字句など一部書き換えた箇所もあるが、ワークショップの真摯な、活気に満ちた状況が何ほどか再現できればと望んでのことである。


Kathryn Nocerino, “Americanism” (1999) の報告と感想
赤間 壮太

 この作品を、物語の主人公である7歳の Nocerino の視点からと、作者である大人の Nocerino の視点から分析する。前者の視点からすると、この作品は主人公が好きなテレビ番組の登場人物を自己のモデルとして憧れるものの、現実とのギャップに苦しむ物語ととらえることができる。一方、後者の視点からすると、主人公を子どもと設定して、その立場からマッカーシズムの滑稽さを描くことにより、1950年代の赤狩りの時代を皮肉に描写する物語であると読むこともできる。
 主人公 Nocerino は、退屈であり彼女を疲れさせる現実世界の対極としてある理想的な西部劇の世界における登場人物に憧れている。しかしながら、その登場人物たちが大人であり、男であり、常に冒険のさなかにあるのに対して、彼女は退屈な世界に住んでいる女の子ということで理想と現実とのギャップを感じている。例えば、彼女が冒険を求めて、筏を作って湖に浮かべようとする男の子の集団に交じろうとするものの、彼らは女の子が嫌いなので仲間に入れてもらえず、フラストレーションをつのらせている。
 彼女が自分では実現できない理想像を投影する先は、大人であり男である彼女の父親である。彼女の視点からすると、父親は世界で一番頭がよく、Buffalo Bill や Geronimo と同じくらい銃を扱うのがうまいと言って、彼女の理想とする西部劇の登場人物たちと父親を同一視している。
 しかし、彼女にとって理解できないことは、その父親が彼女にとっては退屈であり滑稽な McCarthy が熱弁する番組を数ヶ月の間ずっと見ていることである。その彼女の疑問を解決するカギになるのは、教師が彼女の父親は共産主義者だと叫ぶことである。7歳の彼女にとっては共産主義者というのが何者か理解できないものの、彼女の父親が突然変な番組を見始めたのは、共産主義者という妙な状態になったからだと思う。そのため、最後に父親がそのような番組から他の番組にようやくチャンネルを変えたことは、父親がやっと共産主義者という状態から彼女にとって理想的な状態に戻ったという喜びであり、物語はそこで幕を閉じる。
 以上が、7歳であり社会や政治については知識のない主人公 Nocerino の視点を鑑みながら分析した結果である。それに対して、1999年に本作品を発表した作者 Nocerino の視点を考慮しながら読むと、この作品はテレビにおけるマッカーシズムの議論を子どもの視点で滑稽なものとして描くことにより、1950年代当時の熱にうかされたような赤狩りの時代を揶揄したものとして読むことができる。
 参加者からは、第二次世界大戦後間もない1950年代のアメリカにおける、かつての敵国であるイタリア系の Nocerino の父親がもつ政治的スタンスに関する意見や、教師が別の生徒を呼ぶときにはファーストネームで呼ぶのに対し、Nocerino を呼ぶときには明らかにイタリア系と分かる姓で呼ぶのには何か意図があるのかなどの質問があり、とても参考になる新たな視点を頂くことができた。
 発表者三人が同じ三つの短篇をそれぞれ分析するということで、他の参加者の発表を聞くことで解釈の多様性を知ることができるという意味で、とても有意義な経験であった。また、ラテン系およびアラブ系のエスニック・マイノリティーの女性作家を研究する機会はこれまでなかったので、作品の所々にみられる彼女ら独特の文化の表現があって興味深かった。


Naomi Shihab Nye, “Red Velvet Dress” (1999) の報告と感想
松浦 和宏

 “Red Velvet Dress” については、主人公である11歳の少女 Lena が自己を確立し、自らがもつ民族性を認識する様子に着目した。
 パレスティナ地方出身の父親をもつ Lena だが、中東の人間としての民族性を意識しようとしない彼女にとっては、「アラブ」は他者を示す言葉でしかなく、自らの体に中東人の血が流れていると公言することも、父親が “An Arab” であることも、到底認められない。「アラブ」は、Lena にとって、得体の知れないものであり、言わば境界の外側に存在するものでしかなかったのである。
 それ故に、Lena は学校で自分(の一部)がアラブ人であることを誰にも教えず、中東の人間を見たいが為にやって来た子供たちを拒絶する。彼女にとっての境界線の外側にある存在を受け入れようとはしないのだ。
 しかし、父親の Aziz は、不意に飛来してきたコウモリを拒否することなく、むしろ歓迎する。そして、彼女に対して「答えはひとつだけじゃじゃないんだよ」と語りかける。外部の存在を迎え入れること、そして多様性を認めることを Lena は次第に意識するようになっていくのである。
 そして、遠く中東にいる親戚から送られてきた Red Velvet Dress を Lena は好み、毎日のように着ることになります。アラブの民族性を意識した Lena が着用する Red Velvet Dress は正しく民族性の象徴であり、これを好んで着る Lena は文字通りアラブの民族性を身に纏う事になる。自らの体内に脈打つ民族性に目覚めた彼女は、アラブ人としての自己と境界を確立する。そして、自分とアラブの親戚たちとが密接に関係していることを強く意識するようになるのだ。
 彼女の中で何かが変わる。もう Lena にとってアラブは境界の外ではなく、彼女の境界の内側に内包されたものとなる。彼女は学校で自分がアラブ人であることを周囲に公言するようになり、自分とアラブの親戚たちとの結びつきと同じように、Lena が住む地域の人達との繋がりも意識するようになる。
 このように、“Red Velvet Dress”は、主人公の少女が成長する過程で、自己と民族性を確立しつつも、その境界外の世界とのつながりも得ていく物語であると言えると思う。


Helena María Viramontes, “The Moths” (1985) の報告と感想
阿賀 圭祐

 Viramontes の短編 “The Moths” では、死期の迫った祖母の世話をすることで成長していく主人公の少女の姿と、成長することに対しておぼえる彼女の不安が、その祖母の象徴的な死を通して描かれる。この作品では、瀕死の祖母の看病が主人公にとっての通過儀礼のような役割を果たしており、祖母の死によってその手続きが完結するところで物語は終わる。
 存命時の祖母は、主人公に “safe and guarded and not alone” という安心感をもたらす存在である。そしてその祖母の家は、主人公が姉妹との衝突の末に逃げ込む避難所、あるいは父親の折檻により腫れ上がった手を癒す救護所であり、“it was cradled within the vines” とあるように、主人公にとって「ゆりかご」のような場所である。この祖母の家の有機的な描写と対照的に、教会の描写では、“the vastness” あるいは “the coolness” といった無機的な言葉が用いられる。また、教会において彼女は “I was alone.” と感じるが、これは祖母がもたらす “safe and guarded and not alone” という安心感の対極に位置するものであるといえる。
 かつて父親によってミサへ出席することを強制されたときも、家を出た彼女が行き先として選んだのは教会ではなく、祖母の家である。このとき料理をする祖母の傍らで、涙を流しながら “I don't like going to mass” という本音を主人公が漏らす場面からも窺われるように、祖母の家は長い間彼女にとっての「ゆりかご」であった。そこにいる限り、主人公はゆりかごの中の赤子のように、姉妹との喧嘩や父親の折檻やミサといった現実から身を遠ざけておくことができた。しかし、祖母の身に死が迫ってくるにつれ、主人公はもはや彼女のゆりかごの中にはいられないのだということを、ゆりかごの外の世界と無縁でいることはできないのだということを悟る。祖母の死が意味するのは、ゆりかごから引きずり出されるということであり、外の世界に放り出されるということである。それに伴う主人公の不安の感情は、ゆりかごの外にひしめき合う兄弟喧嘩や折檻やミサといったものに対する怒りや苛立ちに姿を変え、母親に向かって “Abuelita fell off the bed twice yesterday” と言うべきでないことを口走ってしまう。
 祖母の臨終が主人公にもたらすこの不安は、ゆりかごの外の世界と向き合うことの不安、つまり成長することの不安に他ならない。こうした不安の気持ちは、それまで存在感の薄かった母親に対する、“Am´a;, where are you?” あるいは “I wanted my Am´a;.” といった感情の高まりとして描かれている。さらに最後の入浴の場面では、その不安がますます募り、最高潮に達しつつあることが、数行にわたって反復する “I wanted” によって表現される。そして同時にそれは、蛾の幼虫が脱皮して成虫となるように、祖母の看護と死を経て成長を遂げた主人公の変化を予感させるものでもある。浴槽の中で、主人公は事切れた祖母の遺体をゆすりながらむせび泣く。その泣き声は、祖母の死と入れ替わりにゆりかごの外の世界に産み落とされつつある自分、“half born” (「生まれかけ」)の新たな自分の産声でもあるにちがいない。


三つの報告について
渡部あさみ

 三人の報告者の発表は総じてそれぞれの作品に対する分析と解釈が詳細にされ、オリジナリティがあり、作品についての理解を深められるだけではなく、価値を高める報告であったと思われる。
 赤間荘太氏は Kathryn Nocerino の “Americanism” について、少女である主人公の視点からマッカーシズムの滑稽さを描き、1950年代の赤狩りを皮肉的に描写する物語であると位置づけた。主人公は少年たちに憧れ、西部劇中のヒーローや父親を理想像とするが、少女である彼女がその理想を実現できないことや、 “communist” という言葉を理解できない彼女にとって父が時折不可解な言動をすることにギャップとフラストレーションを感じているという報告であった。
 さらに、物語における女性の存在感の薄さと主人公が男性に憧れる理由、および父親の実像とマスキュリニティとの関連などジェンダーの問題に関わる解釈などが加えられると、より作品に対する理解を深められる内容になると思われる。また、この作品においては第二次世界大戦の影響により、作者がイタリア系アメリカ人であることとの関連や、作品中の “Un-American” のコンセプトと当時最も有名な政府による反共産主義調査委員会であった House Un-American Activities Committee の活動との関連も作品を読む上で考慮したい歴史的・社会的背景だと考えられる。
 松浦和宏氏は Naomi Shihab Nye の “Red Velvet Dress” というディアスポラ的な作品について、主人公の少女が当初は受け入れがたかった「パレスチナ人としての民族性」を父親や親族との関係を通して認識し、周囲と自分とのつながりを獲得する物語であると説明した。オリエンタリズムに影響されたステレオタイプ的な「アラブ人」のイメージと、父および自身との関連を拒絶していた少女が、パレスチナの親戚から送られてきた着心地が良く、美しい赤いドレスと父との交流を通して、それまで敬遠していたアラブ文化に対して肯定的な受容ができるまでに成長する過程について分析する報告であった。
 この作品はワークショップの主題である「アメリカにおいてエスニックで女性として成長すること」に加えて、パレスチナ人の父とドイツ人の母を持つ主人公の多文化を背景とするアイデンティティ形成についても示唆に富む興味深い作品である。また、アラブ人性をめぐる葛藤がありながらも、彼女が自ら言及するまで周囲からアラブ人だとみなされないことは多文化家族における個人のアイデンティティ形成において人種/エスニシティの問題が身体的特徴との関わりが深いことを示している。少女がドイツ人性よりもアラブ人性に対して強く意識させられたことは、アメリカ社会において “unmarked category” とされる whitenessに 対する “marked category” である有色人性の位置づけを特徴的に表している。
 阿賀圭祐氏は Helena Mar´i;a Viramontes の “The Moths” について、成長することに対して感じられる主人公の少女の不安が、祖母の象徴的な死を通して描かれている物語であると分析した。少女は家族関係において困難と孤独感を強く感じていたが、祖母からは保護と安心感を得ていた。そして、胎内を連想させる浴槽の中で祖母の遺体を清めることにより、代わりに少女がゆりかごの外の世界に産み落とされ、成長する不安を強く感じるという解釈を報告した。
 この少女に対して大きな影響力を持つ祖母の死をきっかけに、少女はそれまで反目していた母親を強く求めるようになる。少女に安心感を与えてきた祖母と比較して母親はどのような存在であるか。祖母には夫はすでにおらず、一人で比較的自由に暮らしており、少女に大きな理解と許容を示していた。少女に園芸をさせること、メキシコ料理を作り与えることも少女の成長と関わり、象徴的な行為であると思われる。一方で、母親はカソリシズムを基盤とした家父長制家族において、抑圧的な夫を支える保守的な女性である。少女との関係性における母と祖母のイメージや役割についての分析をさらに加えると、作品に対する理解がより深められる内容になると思われる。
 以上のように、今回のワークショップはエスニックとして多文化を背景とする環境に育つ少女たちを描いた3作の短編を扱い、現代アメリカにおける多様なアイデンティティ形成をめぐる女性の不安と葛藤、そして成長について知ることができる大変興味深い内容であったと思われる。


発表を聞いて
井手 達郎

 「批評とは何か、文学作品にどのようにアプローチするのかを示したい」、伊藤先生のこの言葉でワークショップは始まった。先生が最後に明らかにしたように、それは、エスニックという問題を追求しながらも、何よりもまずテキストの細部に注目すること、そこに込められた作者の企みにこそ目を向けることであった。とかく今回のような主題を扱うとき、議論が歴史的背景やマイノリティ一般の問題へ収束してしまい、扱うテキストそのものが霞んでしまうことが少なくない。しかし、今回のワークショップはそうではなかった。
 まず作品ごとに設けられた Warm Up Quiz が非常に効果的だった。重要と思われる箇所についての質問が出題され、各報告者が答えていく。これが作品分析の前に行われることで、それを見ていた聴衆を含め、あたかも作品を再読しているかのような雰囲気が生まれていた。もちろん作家や時代についての説明も挟まれたが、全員の意識が一番集中していたのは、質問と答えのやりとりから浮かび上がってくるテキストの細部だったはずである。
 続く作品分析でもこの方針は貫かれていた。形式はこれまでと異なり、報告者一人がひとつの作品を担当するのではなく、三人が各作品すべてについて分析を発表するというものだった。何よりも印象的だったのが、三者三様を呈しながらも、それぞれが作品から離れた恣意的な分析になっていなかったことである。石原千秋の本から採用した「誰々がなになにをする物語」「誰々がなになになる物語」という議論の枠組みを活用したのも大きかったのだろう。たとえ結論を共有する場合でも、それぞれが注目する「誰々」「なになに」が異なることで、ひとつのテキストが生み出す多様な読みの豊かさを、描かれている細部に沿ったうえで示すことに成功していた。  誰よりもねらいを踏まえていたと思われる伊藤先生と渡部先生のコメントの仕方は素晴らしかった。視線、身体表現、アメリカ化されつつあるエスニシティ、エスニシティとジェンダー、象徴的表現といった様々な問題を指摘しながらも、すでにある理論や背景を作品に押し付けるということを絶対にしなかった。あくまでも描かれている細部から問題を立ちあげることによって、議論は各方面に広がっていきながら、決して作品そのものから離れなかった。
 報告者側の意図が伝わったかのように、フロアの側からも、細部にこだわった質問が数多く出された。 教師による生徒の呼び方の違い、繰り返し使われる言葉の意味などは、報告者側の姿勢を共有していなければ目を向けることができない点である。議論が一般論へと離れそうになったとき、すぐにその軸をテキストそのものへ修正し続けていた先生の姿に、今回のねらいに対する強い意識が表れていた。
 結びとして報告者側がそれぞれ「どの作品が好きか」を発表したことは、「批評とは何か」という問題意識と強く結びついていただろう。言うまでもなく、エスニシティという問題一般に対する視点をおろそかにしてはいけない。しかし、その点に拘泥し、そこからのみ出発して文学作品を眺めてしまうとき、そこに「おもしろさ」や「好み」という要素を見出せるだろうか。しかし今回のワークショップでは、おそらくその場にいた全員が、それぞれの「おもしろさ」や「好み」を感じとったはずである。それは、「文学作品にどうのようにアプローチするのか」を、身をもって体験できたからにちがいない。


総括と感想
伊藤  章

 今回、報告をまとめる際に、「誰々が何々をする物語」あるいは、「誰々が何々になる物語」と一つの文章にまとめるといい、と提案した。それは、小説にはいくつもの物語が埋まっていて、読者がそこから好みの物語を主体的に取り出す、それが読者行為だと考えるからだ。しかし、物語を要約する際、読者はどのような物語を取り出してもかまわないかということになると、そうではない。
 英語のテクストを正確に(ある程度の妥当性をもって)読むということは、英語の読解力に支えられた技能であると同じ程度に、知識に支えられた技能でもある。テクストの背景となっている歴史的状況や場所についての知識、作者についての情報を総動員しながら、テクストの空白(隙間と言っても行間と言ってもよい、要するに抜け落ちたり、省略されている部分)を埋めたり、暗示だけされている部分を明らかにしたりしていかなければならない。
 とりわけこのことは、 “Americanism” を読む場合にあてはまる。1950年代に吹き荒れたマッカーシズムとマッカーシー上院議員についての知識、50年代のテレビ番組の知識、ニューヨーク市クイーンズ区フラッシングという場所についての知識が必要だし、公立学校で星条旗が象徴する合衆国に対する「忠誠の誓い」がとりわけ熱心に斉唱されていたことも知らなければならない。
 一例を挙げよう。ヒロインの家庭は、中流であろう。お父さんの学歴は、大卒であろう。手がかりは埋め込まれている。たとえば、 “the Invaders (ourselves)” から、一家が戦後フラッシングというニューヨーク市郊外に進出した中産階級であろうことが推測できるし、 “our genuine imitation Oriental rug” や “Castro Convertible” などから、贅沢なものはないが、物に不自由しない階層であることが推測できる。お父さんがイタリア系移民の子孫であっても、すでに第三世代に属し、大卒か大学に通っていたことは、第二次世界大戦の時に、ROTC(予備役将校訓練部隊)に入隊していたという事実から推測できる。最後にチャンネルを変えたのは、お父さんがマッカーシー嫌いの、大学教育を受けたインテリであったからだ。小説を読むということは、辛気くさいが、細部にこだわることでもある。いや細部を楽しむことに文学の醍醐味がある。
 テクストの意味を確定する際、作者の情報が重要であるというよい例が、 “The Moths” であった。作者がチカーナ(メキシコ系女性)作家であること、しかも、カトリック教に支えられたメキシコ系の家父長制的な文化に批判的なフェミニストであることを知らなければ、テクストの適確な解釈はできない。作品はあくまでも読者のものだから、好きに読んでよいという立場もあるだろう。しかし、それでは読者が自分勝手な考え方や欲望や期待をテクストに投影するだけで、その読み方は、十分な客観性をもたない。テクストが作り出されたとき、作り手のまわりでどのようなことが起っていたのか、歴史的、社会的状況、個人的事情を押さえて、読まなければならない。しっかりリサーチをした上で想像力を働かせて、作り手と同時代の、同じ社会、同じ文化の人間になろうとすべきだ。
 あわせて、作者の意図なり思いなりが、テクストの唯一の妥当性ある意味とは限らないとしても、それでも作者が作品に込めた思いを掬い取る。それがすばらしい作品を残してくれた作者へのせめてもの恩返しであろう。そのうえで、テクストが展開する主題や意味、価値そのものを問い直し、批判する。そういうところまで行くのが、文学批評なのではないのか(志を同じくする者同士、これからも一緒に勉強していきましょう)。