主 人 公 は 誰 か
――テネシー・ウィリアムズ 『ガラスの動物園』 を読み直す――
はじめに
若手研究者をパネリストに迎えてのワークショップも第7回を迎えたが、今回の対象作品としては、Tennessee Williams の The Glass Menagerie を選んだ。
『ガラスの動物園』は言わずと知れたウィリアムズの初期の代表作である。また、この作品が姉のローズを救いきれなかったことに対する悔恨から生まれたことは周知であり、その意味でウィリアムズの自伝的要素の強い作品としても知られている。
とすれば、作者の分身ともいえるトム・ウィングフィールドを主人公と捉えて読むのが最も妥当であるように思われる。しかしながら、実際に作品中でトム以上の圧倒的な存在感を示しているのは母親のアマンダであり、彼女を中心として物語が展開していくといっても過言ではない。事実、数多くの舞台や映像でアマンダを主人公と捉えた演出が行われてきた。ポール・ニューマン監督による映画化(1987)においても、基本的にはこの路線がとられていると考えてよいだろう。一方、タイトルとなっている「ガラスの動物園」を集めているのはトムの姉ローラであり、この意味では彼女を主人公と捉えることも充分に可能である。
こうした事情を反映して、これまでにも三人のうち誰を主人公と捉えるのかという点がしばしば議論の対象となり、作品全体の解釈に少なからぬ影響を与えてきた。
そこで今回のワークショップでは、三人の若手研究者にそれぞれトム、アマンダ、ローラの視点から作品を読み直してもらって、どのように作品の見え方が変わってくるのかを考えてもらった。いってみるならば、それぞれ担当の人物が観客の印象に残るようにするには、どのような解釈に基づく演出をすればよいかを考えてもらおうという趣向である。
以下はそれぞれの発言について、当日の発表内容のうち、担当の登場人物に深くかかわる部分を中心に要約してもらったものである。全体の統一のために一部手を加えた部分もあるが、ワークショップで彼らが見せてくれた若手ならではの活きのよい発表を再現できればと願っている。(山下與作)
『ガラスの動物園』という戯曲の特徴を、最も端的に言い表す言葉は「錯覚」である。登場人物は、様々な形の透明な壁から成り立つ迷路の中をさまよい続け、自分の立ち位置によって変化する光のスペクトルの色をそれぞれの見方で見ている。家庭内の生活も、外の生活も、自分だけのガラス(プリズム)を通して見るため、それぞれの現実の捉え方は随分異なる。共通していることがひとつだけあり、それは「悩み」だ。三人とも、やりたいことをやれない故に、それぞれが自分のことをある程度 “disabled” な存在と感じるようだ。例えば、アマンダは自分の子供たちを幸せにしたくてもできないため、“disabled” な母のようであり、愛していた夫に捨てられることで “disabled” な妻としても悩んでいる。トムは家から逃げられないし、作家にもなれないという意味で “disabled” である。このような苦しい現実から逃げようとして、一人ひとりが自分のつくった想像の世界に隠れている。
ローラは “inferiority complex” をもった “home girl” として描かれ、その “inferiority complex” の原因は彼女の “crippled leg” と彼女の「欠陥」を絶えず指摘する母である。 ローラは、彼女の立場から見れば “able” である人間たちの中では、(家の中でも外でも)なかなか落ち着けず、落ち着くのは、ガラスの動物園が置かれた自分の避難所に戻るとき、もしくは一人で散歩に行き、ペンギンと熱帯植物を見るときだけだ。ペンギンは鳥だが、しかし、飛べない鳥である。従って、飛べる鳥から見れば、 “disabled” な鳥のように見える。しかし、ペンギンは元々飛べない鳥だから、それはペンギンにとって当然のことであり、全く “disabled” のように見えないだろう。ローラも自分が “disabled“ のように感じているが、他の “disabled” として捉えられる仲間たち (ペンギン) の中にいることで憂鬱な気分をはらす。熱帯植物の観賞も同じ目的の行為である。彼女が熱帯植物がを好きな理由と言えば、それらが他の花から見ると、珍しい、つまり、 “different” であり、特別な世話を受けないと生けられないからだ。ローラもそれと似たような存在であり、その点に共感しているようだ。
三人はほうぼうを歩き回り、また出発点に戻る。毎日はその前の日の際限のない繰り返しであり、三人はその悪循環の突破口を模索しているようだが、なかなか見つけられない。その壁を破壊しようとすることなく、相互理解しようともせず、そのままその壁にぶつかり続けるだけだ。三人とも絶望とコンプレックスをもち、それらを互いに投影し合い、現在の状態をさらに悪化させる。その一方で、それぞれがそれぞれの想像世界の中に逃避し続ける。トムは将来に逃げ、アマンダは過去に逃げ、ローラも古いレコードの永久の再生によって過去に隠れる。
アマンダは自分の子供たちに「レッテル」を貼り続ける。トムが、アマンダにとってトムは “selfish” であり、ローラは “unmarried, crippled and has no job” つまり「負担」でしかない。また、アマンダは子供たちを「幸せ」にさせたいがために一生懸命頑張るが、その子供たちにとって「幸せ」ということは何かと一度も聞くことがない。それは、彼女にとって「幸せとは何か」は明白だからだ。
当時のアメリカでは “success” が「幸せ」と同義だったようだ。従って、ローラの “drifting along” 、つまり仕事も私生活も “successful” になるために何もしたくないという生き方はアマンダにとって許せない行動である。アマンダは、ローラがずっと家に引きこもっているという理由で、 “different” な存在として捉えている。その一方で、アマンダ自身は彼女の想像の世界(過去)に引き籠っていることを自覚していない。
ある日トムはあるトリックについて語る。それは棺に閉じられた人が釘をひとつも取らずに、外に出るというものである。トムは、やりたいことをなかなかやれないために、自分を半分死体のように感じている。さながら、彼はこのトリックを使って自分も自由になりたいと言いたげだが、彼をしばりつける「棺」の釘のひとつはローラであり、それを破らずに外に出ることができない。
ジムは、ローラに彼女の悩みの理由のひとつを簡単に説明し、ローラは自分の人生を考え直すチャンスを与えられた。そもそも、彼女の大きな醜い “ugly horn” は、アマンダの態度の投影の結果として生まれ、ローラの現実の受け入れ方にずっと影響していたのだから、彼女は元々 “usual horse“ だったかもしれない。だとすれば、これからはローラ自身が選択をしなければならない。そのまま孤独で寂しいユニコーンのようにさまよい続けるか、もしくは、 “usual, not freakish horses” の一頭になるか。
ナレーターとしてのトムの視点と、彼のフィルターを通して描かれる1930年後半のセント・ルイスに生きるキャラクターとしてのトムの二つの視点が描く「追憶劇(Memory Play)」は、二十世紀(又は二十一世紀)の時代に生きる観客である私たちに、追憶が生きる力であることを示している。『ガラスの動物園』の各登場人物は、ガラスのようなもろさを内に秘めながらも、ガラスが反射する追憶の力を証し、過去が現在と共存する神話の世界のように、過去の記憶の中に今を生きている人々である。
トムの家族であるウイングフィールド一家が住むスラム化した高層住宅は、スラム化し破壊された現実のセント・ルイスの「ブルーイット・アイゴー団地」が崩壊したように、ユートピア思想の終わり、モダニズムの終焉を予感させる。この一家の最後を象徴するように、ローラが蝋燭の火を吹き消したときに、この物語は終わる。トムは、現代人を闇の中で点字の意味を探る人にたとえているが、しかし舞台の上では、蝋燭の火が消えても、暗闇の中で点字を指先に感じるように、闇の中にガラスから反射する光の余韻を心に見ることができる。闇のなかにローラの吹きつける息の音が漂い、追憶のなかに物語を生み出していく。
ナレーターとしてのトムの視点が描く、思い出の家族の人生は、深い関りの中に生きている。魔術師トムはイリュージョンのように、同僚のジムを家に連れてくる。ジムは、写真に写るトムとローラの父親の身代わりであり、アマンダの夫の身代わりとして、家族と関っていくが、最後に幻想のように消えていく。ジムの登場は、追憶に生きる家族の力強さを、際立たせている。
『ガラスの動物園』の二人のトム(ナレーターとキャラクター)の視点から発表を考えていたが、前日まで両者の距離間について、自分なりの結論に到達できない状況だった。前日の先生達との話し合いの中で助言をいただくことができ、当日は原稿を書き変えてのぞむことができた。
私は、トムと他のキャラクターとの一体感を強調した結論にしたが、ご出席くださった演出家の桑原和彦さんからは、トムはブレヒトの異化効果でもあるとのご指摘を、ワークショップ後にいただくことができた。
高橋先生からのご指摘の、トムが同席していない場面のローラとジムのダイアローグの理解は、山下先生のご説明にあるように、バージョン(アクティング版とテキスト版)の違いで変わるトムと他のキャラクターとの関連性からも見ていく必要を感じたが、現在まだ明確に答えることができないので、今後の課題とするつもりである。瀬名波先生のご指摘の映画とトムとの関係については、私はトムのゆれるアイデンティと動く映画 (moving movie) との関連について簡単に触れることしかできず、この点も今後の課題として考えていきたい。
当日のフロアとの質疑応答から、ドラマは、テクストだけでなく、光や音の空間、演技者、観客、演出家が作り出すアートであることを改めて知ることになった。詩や小説とは異なり、ドラマは登場人物をまず「好き」になることも重要であるといった指摘もあった。今回、トムの視点から発表したのは、博論のC・S・ルイスとポストモダンのテーマとの関連性から選択したが、次回は、こうした「好き」のディメンションからも、ドラマの人物たちと巡り会いたいと思う。
本発表では、まず『ガラスの動物園』において繰り返される回転のイメージに着目した。そして、この回転の表象が、「ガラスの動物園」という作品の中心的な主題のひとつである記憶と生の問題、つまりは現在/過去の循環による生の成立という主題を構成している様子を指摘した。
『ガラスの動物園』という作品には、回転するモノや人が何度も何度も登場する。ローラは父のレコードを回転し、 アマンダは電話のダイアルを回転し、トムは「ガラスの動物園」という “memory play” を “turn back” してから語り始める。
これら回転の場面には、常に「音の再生」が伴う。レコードに録音された歌、電話の会話、トムのナレーションと劇中に繰り返される挿入歌。そして、これら「回転」と「音」の一致する場では、常に「過去」が「現在」の中へ再生されている。
登場人物たちは、こうして現在と過去の間を往復する。過去を糧に現在を生きている、と言っていいかもしれない。 過去を糧に現在を生き、その現在がまた過去となり、その過去がまた現在の糧になる。そのような循環する記憶と生の関係を、『ガラスの動物園』は描いている。
ウィリアムズは、この過去/現在の往復運動を四季の循環の構図に託す。四季の循環は、死と再生(冬/春)を繰り返すという意味では「反復」でありながら、新たな循環が常にその前の循環と異なる「更新」でもある。そのような「更新」する「反復」として生命の循環が維持されているという構図をウィリアムズは意識していた。それは、『ガラスの動物園』における登場人物たちが、反復であり更新でもある過去の再生を繰り返すことで、それぞれの生を維持している姿に見て取ることができる。
発表を終えた後、もう一度作品を読み返してみた。すると、登場人物の過去の記憶が、どれも失踪した「父」と繋がっていることが見えてきた。ローラと父のレコード、アマンダの父を模した電話行為、そしてトムの語る自分の過去としての「ガラスの動物園」。過去が出現する場面には、常に父の影がつきまとう。テクスト版では存在感が薄れているが、ウイングフィールド家の居間に掛けられた “larger than life” な写真の中にいる父は、終始『ガラスの動物園』という作品全体をその視線の中に捉えている。
発表では、司会の山下先生、コメンティターの高橋先生を始め、フロアの方々から多くのご助言、ご感想を頂いた。特に論の構成の甘さや、ディスコースとの関連性の欠如に関するご指摘は大変勉強になった。頂いた種々のご指摘を念頭に、今度は「父」の視点からもう一度この作品を読み直してみたい。
まず、あらためて関係者各位にお礼を申し上げたい。発表を担当していただいた三人の大学院生は、短い時間で精緻な解釈を仕上げてくれた。その努力と熱意は私も大いに刺激を受けたことは言うまでもない。また司会の山下先生には、大変興味深いテーマを与えてくださり、まとめ役としてもお力を頂いた。演劇の楽しさをまた知ることができる機会になったと思う。さらにフロアの方々からの活発な意見によって、当日の議論が盛り上がったことは、ワークショップの成果として何よりであった。発表者の方々にとって学ぶことが大きく、この企画の本来の目的にかなったものとなったことは間違いない。
それぞれの登場人物に焦点をあてて、『ガラス』を読み直すという試みは、本作品の持つ多面性を深く考察するという点で欠かすことはできない作業である。別々の角度から見て変わる読みと変わらない読みとはそれぞれ何なのか、以降の作品とつながるものは何なのかを考えていくことには、私自身読み直していく過程で大いに興味をかき立てられたし、もっと時間をかけて議論ができたらどんなに良かったことかという印象である。
コメンテーターとしてどれほどのことができたかは不明だが、準備段階から当日まで大変学ぶことの多い時間を過ごさせていただいたことに感謝申し上げる次第である。
まず非常に丹念で精密なテクストの読解を行ってくれた若手研究者の諸氏に敬意を表したい。まさに彼らが日頃から研鑽を積んでいる様子が垣間見られ頼もしい思いをすると同時に、雑務を言い訳に不勉強になりがちな自らを戒めるいい機会となった。
「はじめに」でも書いたが、この作品は三人の主要登場人物のうち誰を主人公としても成立するものだが、上のまとめを読んでいただければわかるように、誰を主人公に据えるかで全体の色合いが微妙に変わってくること、またジムの存在の意味がそれぞれ異なってくることが、多少なりとも明らかになったのは、そうした精密な読解の成果であろう。
しかしながら、今回は対象が戯曲ということで、普段読みなれている小説の読解とはやや勝手が違ったようだ。フロアからの指摘にもあったが、活字を自分のペースで読みすすめ、時に後戻りすることも許される小説と異なり、戯曲は上演を前提している以上、劇場で役者の発する台詞として聞きとり、決して後戻りが許されないということを考慮した場合、活字レベルでのあまりに精密な読解がはたしてどの程度まで観客に伝わるかはやや疑問が残る。これまたフロアからの助言だが、演劇作品を読む場合は、小説の場合と異なり、細部よりも(もちろん細部も大切なのだが)、全体から受ける印象を大切にしていくように心がけるべきだろう。また、欲を言えば、ある台詞が発せられるときの息遣い、役者の立ち位置などにも気を配ってもらえればいいのだが。もっとも、ここまでくると、実際に劇場に足を運ばなければなかなか身に付きにくいもので、演劇を専門としない者には少し酷な要求だろう。
その意味からも、今回のワークショップでは、桑原氏という舞台制作に携わっている方に参加をいただき、現場の目から見たコメントをいただけたことは、貴重な経験であった。
さて、話を本筋に戻せば、先にも述べたように、当初のもくろみとしては、主要登場人物を一人ずつ若手の方に担当してもらい、その人物にスポットライトを当てて、そこから議論を組み立て行こうというものであった。この点からみれば、それぞれの発表は、作品全体に目を配ろうとするあまり、個々の登場人物の「キャラ立ち」がやや不足していたことは否めない。これは司会と発表者の間でのすり合わせが不十分だったのが主たる原因と思われる。時間的な制約があったとはいえ、反省点として残る。
また、フロアとのやり取りも、後半は主に司会者が応じてしまったことにも、悔いが残る。発表者にもそれぞれの考えがあったようだが、司会が十分にそれらを引き出すことができなかった。
とはいえ、普段接することが小説ほど頻繁ではない(と思われる)戯曲を読む機会を提供することができただけでも、このワークショップを行った甲斐はあったと思うのだが、いかかであろうか。
最後になるが、活発な議論に参加していただいたフロアの皆様に御礼申し上げる。これを機会に演劇にもより一層の興味を持っていただけたら、そして、たまには劇場にも足を運んでいただけたら、今回のワークショップに携わったものとしては望外の喜びである。