The Hokkaido American Literature Society
第142回研究談話会
若手研究者のためのワークショップ 第8回
日本アメリカ文学会北海道支部


報 告 者

  山口 郁恵

(北星学園大学)

  原田 智美

(藤女子大学)

コメンテータ

  鎌田 禎子

(北海道医療大学)

司 会 者

  宮下 雅年

(北海道大学)


“My Visit to Niagara” を読む
   



はじめに

 今回のワークショップでは Nathaniel Hawthorne の小編 “My Visit to Niagara” (1835) を取り上げていくつかの観点から検討します。
 この小旅行で語り手は自分をひとりの「巡礼」になぞらえていますが、pilgrimage としてこの作品を読むのはどの程度可能か、山口さんに発表してもらいます。Niagara Falls はどういう意味でアメリカの「聖地」なのか、これについても同時に検討することになります。
 この作品が発表された頃には Niagara Falls の一帯はすでに工業化や観光地化が始まっていました。この点について宮下が、語り手によって削除されたり、無視または軽視されている事柄を復元し、1830年代の Niagara Falls の姿を提示しようと考えています。復元された全体像に照らすことによって、自然と文明、荒野と楽園、個人と共同性などを巡る語り手の態度の特異性が明瞭になると思います。
 原田さんには語り手の態度の特異性を他の作品と結び付け、比較して論じてもらいます。この段階では発表者が何を取り上げるのかは未定ですが、たとえば “The May-Pole of Merry Mount” (1836) や “Ethan Brand” (1850) を引き合いに出してみるのも面白いと思っています。前者は「お楽しみ」の追放に関わるものですし、後者は(Leo Marx によれば)「工業技術」の行く末を暗示するものだからです。
 司会者を含めて発表者は Hawthorne の専門家ではありません。それで共通の基盤として Leo Marx の The Machine in the Garden (1964) を踏まえることにしています。半世紀ほど前に出版された本ですが、やはり新進の研究者には必読の書だと思います。こういう素人集団ですから、コメンテーターの鎌田さんはじめご出席のみなさんから頂戴するご助言やご意見が一層重要になります。ご協力のほどよろしくお願いします。(宮下雅年)

     

“My Visit to Niagara”: pilgrimage(聖地巡礼)の観点から
山口 郁恵

 本発表では、“My Visit to Niagara” を聖地巡礼(pilgrimage)として読むのはどの程度可能であるか考察した。同時に、Niagara Falls はどういう意味でアメリカの「聖地」なのか、ということについても検討した。
 まず、「召命→試練→克服→帰還」という巡礼の構造に “My Visit to Niagara” がどの程度当てはまるのかについて検討した。 “My Visit to Niagara” は語り手が聖地への巡礼を果たす過程を描いていると考えることができる。巡礼譚のモデルである Pilgrim's Progress において、home である City of Destruction を出発し、紆余曲折を経ながらも、直線的に HOME である Celestial City を目指し向かっていく Christian は、天の都へ到達し現世における死を迎える。一方 “My Visit to Niagara” では、語り手は home を出発し HOME である Niagara Falls に到着し、その場所において試練とその克服を体験し再びhomeへと戻っていく。直線的な Pilgrim's Progress に対し、“My Visit to Niagara” は、円環運動をしてただ戻ってくるのではなく、楕円形もしくは螺旋形の運動である。このように、巡礼譚の典型というべき Pilgrim's Progress を下敷きにして考察を進めていったところ、部分的には Pilgrim's Progress からの逸脱は認められるものの、“My Visit to Niagara” では語り手は巡礼の構造を元に読むことは十分可能であると結論付けることができた。
 次に、Niagara Falls はどういう意味で聖地として理解できるのかという点について考察した。Niagara Falls の聖地としての意義は、アメリカの象徴としての Niagara、崇高な大自然としての Niagara、宗教的聖地、そして商業的・産業的聖地の四つが考えられる。Niagara Falls は、都市の対極に位置するものである「田園」を象徴するものであり、手つかずの自然、人間のスケールの及ばない自然を表わしている。同時に Niagara は、その産業・商業的な活用に見られるように、自然をコントロールまたは利用する、人間の知恵の栄光の体現でもある。Niagara のこの性質は、レオ・マークスが言う中間的景観 (middle landscape) という認識の可能性を Niagara が秘めていると考えることができる。Niagara は聖地としての様々な意義を持っており、それらが均衡を保ちながら併存していると言える。

 今回のワークショップでは、自分の考察の仕方の甘さが浮き彫りとなる結果になった。全体としての根拠のなさや、テクストの読み込みの浅さをご指摘いただき、大いに勉強になった。特に、本発表では、巡礼の構造は “My Visit to Niagara” にもあてはめられると結論付けてしまったが、語り手は帰還せず、さらに旅を続けたことを指摘していただいた。また、聖地としての Niagara Falls が “fall” であるという点を指摘していただき、重要な観点であるにもかかわらず自分では気付くことができなかったことであったため、大変勉強になった。また、知識が不足する中、短時間で「信仰」について取り扱おうとしたことのひずみを痛感した。それらの反省点に加えて、ホーソーンの伝記的事実との照らし合わせについても、今後の課題としていきたい。
 稚拙な発表ではあったが、司会の宮下先生、コメンテーターの鎌田先生を始め、多くの方から貴重なご助言、ご感想をいただくことができた。今回の発表をスタートとして、今後の研究に役立てていきたいと考えている。



“My Visit to Niagara”:「中間的景観」の視点から
“The May-Pole of Merry Mount”、“Ethan Brand” と比較して  原田 智美

 本発表において、「二つの力がぶつかり合うストーリー」としてこれらの作品を読むことができるという点に着目した。“My Visit to Niagara” では、文明や機械と自然とが、“The May-Pole of Merry Mount” では、アルカディア的なメリー・マウントで暮らす快楽主義者たちと、祈りと労働に明け暮れる非寛容、懐疑的集団であるピューリタンたちとが、それぞれ衝突をしてストーリーを展開していくが、両者がどのように互いの間に妥協点を見出し、折り合いをつけていくか、つまり、レオ・マークスが提唱するところの「中間的景観」をどのように見出すのかを追った。
 “My Visit to Niagara”、“The May-Pole of Merry Mount” においては、全く異なる性質を持つもの同士の間に折り合いをつけることで橋を渡し、両者間のバランスをとっていることが伺える。この姿勢が、「中間的景観」 (middle landscape) である。“My Visit to Niagara” の語り手は、文明化された人の目でエデンであるナイアガラを見ることを嫌い、自分こそがナイアガラの真の美しさを知るのだと一人合点し酔いしれるが、実は他の訪問者の存在を受け入れ、滝を彼らと共有し、文明の力によって「エデン」への訪問を支えられていた。無意識のうちに彼の心理の中で文明と自然の間の橋架けがされ、中間的景観が見出されていた。また、“The May-Pole of Merry Mount” では、メリー・マウントの住人、ピューリタンとともに自分たちの生き方を主張しぶつかり合うが、エディスの存在が両極端の主張を持つ両者を橋で繋ぎ、互いの言い分を受け入れ合うことで中間的景観を見出した。
 “Ethan Brand” もまた、上記二作品と同様「二つの力がぶつかり合うストーリー」として読むことができる。この作品では、テクノロジー、知的発達の代理人のように描かれた主人公イーサン・ブランドと、酒場の酔っ払いや村人、のどかな田園風景が対立する。先の場合と違うのは、知とテクノロジーを究めたイーサン・ブランドは抹殺されるという結末を迎えるが、対立する片方が消えただけであって、先の二作品に見られたように双方の間に橋が架けられ、「中間的景観」が見出されたわけではない。
 三作品の比較について、着目したい点は見出せていたのに、それをどのように表現すればいいのかがわからず、本番直前までほとんど形のない状態だった。三日前の先生方との集まりの中でいただいた助言を頼りに筋道をつけ、パワーポイントも用いて伝える形をとった。
 今回の発表の経験から、ものを考えるということに伴う体力的、精神的辛さを味わい、また、どのようにすればより人に伝わるのかを知ることになった。大学院でのこれからの研究に大いに活かしたい。


若手研究者ワークショップ “My Visit to Niagara” を読むについて
鎌田 禎子

 今回のワークショップで取り上げられたのは、Nathaniel Hawthorne の著名とは言い難い 小編 “My Visit to Niagara” である。この紀行・エッセイともフィクションともつかない作品に対して、どのような読みが可能となるか。企画された宮下雅年氏は、若手研究者に作品を論ずるためのいくつかの観点を示し、その観点に沿って仮説を立て、枠組に従って考え、文献を参照し、論を組み立て、修正していくという過程を、時間をかけて丹念にサポートされた。
 山口郁恵さんはこの物語を pilgrimage として読む中で、Bunyan の Pilgrim's Progress との比較から、「巡礼の構造」を想定し、作品に当てはめた。なかでもポイントは、試練とその克服にあるだろう。語り手は聖地 Niagara に到着しながらも、自らの失望感、邪魔をする他者といった試練を受けるが、しかしそれらを克服して Niagara と一体化したと実感し、再び日常へと帰還していく。その帰還の描く形は単なる円環ではなく楕円または螺旋形、なぜなら語り手は、Niagara によって得た希望に満ち、生まれ変わって元の社会に戻っていったのだから、と山口さんは結論する。自然との一体化がすなわち社会との一体化につながるというこの明るい観点は、田園と機械が調和する Leo Marx の「中間的景観」に結びつけられ、さらに Niagara Falls の聖地としての意義の分析の中で、再び深められた。
 原田智美さんも「中間的景観」の概念を援用して、この作品を「衝突する両極に架橋する物語」と読み、Hawthorne の他の作品との比較を行った。語り手対俗なる他者、自然対文明・機械は当初は相容れないものと思われるが、語り手はその対立の中間になんとかして自分の位置を見出し、最後には納得して帰っていく。この図式を “The May-Pole of Merry Mount” に適用するなら、対立する人々の衝突が若い花嫁エディスによって緩和されたとき、そこにはやはり、両者の歩み寄る可能性、「中間的景観」が開けたと言える。原田さんはさらに、やはり衝突が見られる “Ethan Brand” に言及するが、この場合は、得られた平和な結末は実は「中間的景観」ではなく、一見のどかな風景の裏には、単なる片方の抹殺という皮肉が隠されていると指摘する。
 ワークショップ直前に発表者の一人が欠席することとなり、宮下氏の想定した「解」の一つである論については、図らずもご自分でその材料を提示してくださることになった。すなわち、作品執筆当時の Niagara Falls 周辺像の多角的な復元である。便利な交通手段や施設、多くの同国人観光客、工業化・観光化された周辺の様相等がさまざまな資料によって明らかにされ、それらを作品内から除外した語り手の態度の意味が問いかけられた。さらには、自然の sublimity を尊びながらも、人の叡智を示す technology を無下に否定することもできないという、今日にまで至るアメリカの「開発か保護か」の問題が示された。今回共通の参考文献とされた Marx の The Machine in the Garden も踏まえ、この問題がアメリカの精神、そして文学に与える影響は、未だ重要でありつづけるとする。
 発表者2名は作品の論じ方を徹底的に学びながら、作業の中で独自の解釈を行い、あるいは宮下氏想定の解に留まらず、あるいは細かな所まで緻密に考え抜き、各々、論をすみずみまで自らのものとし、フロアからの質問や意見にも的確に応答していた。時間等の制約の中で、かなり難しい課題を成し遂げたうえに、直前まで発展させつづけた努力に敬意を表したい。三つの論は互いに関連しており、互いに自分の論に照らして広げられる点を多く持つ。フロアからの意見も含めてさらに考察を深めてほしい。今回の経験、いただいた示唆や激励をすべて糧として、今後実り多い研究生活を送ることを心から希望する。