ヒップホップという亀裂

 

 

「ディアスポラは民族や文化の起源にさかのぼる概念ではなく、移動の起源へのノスタルジーよりも、その「効果」の方に向かうための戦略である」

(上野俊哉、『ディアスポラの思考』1999)

 

 

「ゲットーはおれの人生でおきた最悪のことだった / どこから来たかじゃなくて、どこにいるのかが重要なんだ」

(ラキム「イン・ザ・ゲットー」1990)

 

 

1. ヒップホップという現象 

  

 70年代後半に誕生したヒップホップについて、当初はディスコ・ミュージックの残滓をのこした、軽薄でオリジナリティのないものと考えられていた。しかしこの新しい音楽は、ブレイク・ダンス、グラフィティを含む、ゲットーのストリート・カルチャーとして、差別・貧困・暴力・麻薬といった黒人社会の様々な問題点を表現するようになっていく。

ゲットーの終末論的絶望と祝祭の両極端を表象するという意味でポストモダンの音楽とも呼べるヒップホップは、またそれ自体が分析の対象になる。マーク・コステロとデビッド・フォスター・ウォーレスの白人の青年二人が『ラップという現象』(1990年)でヒップホップという新しい黒人音楽を探検する。S・H・フェルナンド、Jr.の『ヒップホップ・ビーツ』(1993年)はヒップホップを、スラングとライム(韻をふんだ言い回し)とリズムによって社会に抗議している点において、ジャズの影響をうけた文体で既成の文学に挑戦した50年代のビート・ジェネレーションの延長線上にとらえる。さらにアカデミックの世界から黒人研究者が、ヒップホップを論じ始める。トリシア・ローズがポスト・インダストリアル社会の都市周辺部からわきあがった声としてヒップホップを論じ、ヘンリー・ルイス・ゲイツ、Jr.が黒人文化における抑圧された黒人英語の観点から、ジュディス・バトラーは黒人差別の問題からヒップホップを論考し、ヒューストン・ベーカー、Jr.がヒップホップと公共圏の関係を考察する。イギリスではカルチュラル・スタディーズの旗手ポール・ギルロイがブラック・ディアスポラ(アフリカ大陸からの黒人の離散)の視点から、ディック・ヘブディージがサブ・カルチャーの観点からヒップホップをとりあげる。

音楽ジャーナリズムの側からは、ネルソン・ジョージの『ヒップホップ・アメリカ』がヒップホップの発生と展開を記録した重要な本と考えられ、1999年度のアメリカ図書賞を受賞した。彼は一九八八年に出した『リズム&ブルースの死』においてすでにヒップホップについて言及していたが、そこでの主たる論点は黒人文化の象徴としてのR&Bが60年代の社会変革の結果、衰退してしまったことだった。その時点ではヒップホップはブラック・ミュージックを活性化するものとしてとらえられているわけではない。しかしこの『ヒップホップ・アメリカ』では、長い間黒人音楽シーンを観察しつづけてきた者として、ヒップホップを70年代のニューヨークに住むアフリカ系、カリブ海出身、ヒスパニック系の若者が作りだした文化としてとらえ、公民運動後の産物としてその歴史と発展を検証する。

さてこのように新しい音楽ジャンルとして認知された、ヒップホップの現況はどうだろうか。硬派路線では、ラキムの『マスター』(1999年)を聞くと、ヒップホップの現状に対するコメントにジャンルの特徴である自己言及性をみることができる。また別の曲ではあいかわらず黒人社会の荒廃振りが訴えられる。同じ年にパフ・ダディが発表した『フォーエバー』のその一般受けするスタイリッシュな音づくりと、ゴシップによるマス・メディアへの登場にヒップホップのエスタブリッシュメント化が見てとれる。

さらにヒップホップはサブ・ジャンルともいうべきヒップホップ・ソウルを生みだす。ドラム・マシーンやサンプリング・マシーンによるブレーク・ビートにのって十代の黒人女性のボーカルが浮遊するヒップホップ・ソウルはブラック・ミュージックの特徴であるファンク=軽くて深いリズム感覚を体現する。しかしその軸が少しでもソウルよりにずれるとそれは単なるソウルになってしまう危険をはらんでいる。ヒップホップ・ソウルというタームと、最初の重要な作品はメアリー・J・ブライジによる『ホワッツ・ザ・411?』(1992年)といわれているが、このアルバムにも伝統的なソウル・ミュージックとヒップホップ・ソウルが混在している。そしてヒップホップ・ソウルの歌い手はさらに若年化し、ブランディ、モニカといったミドルティーンの少女たちが登場するようになる。その歌唱力は黒人特有のバネをそなえた素晴らしいものであるとしても、ヒップホップ・ソウルのヒップホップの部分をささえるメッセージをになうには未熟すぎる。ヒップホップとソウルの相乗的な結合の例としては、ローリン・ヒルをあげることができる。ハイチ移民またはその二世のヒップホップ・グループ、フュージーズ(「レフュージー」=難民からの命名)をへて独立したヒルは、その腰のすわったヒップホップ・ソウル・アルバム『ミスエデュケーション』(1998年)においてカリブ海の音楽を戦略的にもしくは自然に織りこむことでブラック・ディアスポラを表現する。

ここまでヒップホップという現象の意味と現況までを概観してきたが、次にヒップホップの誕生にさかのぼって検証してみたい。

 

 

2. ヒップホップ登場

ヒップホップは、ラップ、ブレーイク・ダンス、グラフィティを中心とするストリート・カルチャーとして1970年代末にニューヨークのブロンクスに出現した。なかでもラップは、ブラック・ミュージックの歴史を受けついでいると同時に、テクノロジーを駆使した点で新しさを誇示する。また、言葉の多さとその敵意と暴力、暗号のようなスラングやライムにあふれたスタイルを、カウンター・カルチャー(主流文化に対する対抗文化)のながれをくむブラック・ナラティヴ(黒人による言説)と見ることもできる。さらに都市というコンテクストからは、先行するブラック・ミュージックがそうであったように、ラップも都市の発展の過程でとりのこされたイナー・シティ(都市内部の荒廃した地域)に生きる黒人の不満、怒り、希望の喪失、いたみをすくいとりながら、暴力やニヒリズムになだれこむのをおしとどめる装置としても機能している。ラップは、ハウス・パーティからブロック・パーティ、さらには公園でのジャムという具合に、つぎつぎにその場をひろげてストリートをパフォーマンスの場と化していく。そこでは巨大なサウンド・システムのうちだすビートにのったラップとブレーク・ダンスがつかのまの祝祭空間を生みだしながら、一方では抗議と抵抗の身振りをかくさない。それはまさにストリート・カルチャーであり、かつすぐれてポストモダン的なアート・フォームともいえる(注一)。

 ヒップホップ・カルチャーを描いた映画として、『ワイルド・スタイル』(1982)においてエアゾル・スプレーで地下鉄の車両や建物、塀への落書き(グラフィティ)を意味するグラフィティ・アートのストリートでの活動のありようを、『スタイル・ウォーズ』(1983)ではラップ、ブレーク・ダンス、グラフィティというヒップホップの総体を見ることができる。曲芸のようなブレーク・ダンスはマス・メディアの伝えるヒップホップ・シーンから比較的早い時期に姿を消す。グラフィティ・アートはキース・へリング(白人)、ジャン=ミシェル・バスキア(ハイチ移民二世)という二人のスターを生むが、前者はエイズで、後者は麻薬で早世する。『バスキア』(一九九六)では、バスキアが画商に見いだされ、ウォホールと交流し、ストリートから離れていくようすが描写される。ストリート・アートであるグラフィティがキャンバスに描かれ画廊にかざられるようになったとたんに生気をうしなっていく。同様に、80年代を走りぬけたバスキア自身もストリート・アーティストとアーティストとの亀裂をうめられずに、ヘロインにおぼれていく。

これ以降主としてラップとしてのヒップホップについて論ずるので、音楽ジャーナリズムの通例にならってこれ以降ヒップホップというときは、ラップをさすことにする。またラップ/ップホップとも表記するが、ブレーク・ダンスやグラフィティを意味すると断らないときは、すべてラップを意味する。

 

さてこの新しいジャンルの創生に関して複数の物語が存在する。第一段階はラップがアンダーグランドで黒人の若者に支持されるようになる70年代なかば、ディスコ・サウンドがいまだはやっている時代である。若き日のジョン・トラボルタがビージーズの音楽を背景に颯爽と登場した『サタディ・ナイト・フィーバー』が1977年だった。ほぼ同じころ、ディスコに行けない者、ディスコ・サウンドにあきたらない者、DJをめざす者、こういった若者たちがターン・テーブルとスピーカー、昔のディスコやファンクのレコード、マイクという必要最小限の道具を使ってラップを作りあげた。その先鞭をつけたのは、ラジオやサウンド・システムをもちこんでの野外パーティがさかんだったジャマイカ出身のDJ、クール・ハークだった。ニューヨークでも車の後部座席にステレオをつんでDJをしていたクール・ハークもブロンクスのプロジェクト(低所得者用アパート)の娯楽室にサウンド・システムをもちこんで行われるハウス・パーティからスタートする。ラップの場はそこから体育館や公園で行われるブロック・パーティに拡大し、そこではDJが自分の知識と技術をきそいあう。ある曲のベースやドラムによるビート部分くりかえす「ブレーク・ビーツ」が発見され、次に針をおろしたレコードを前後に擦る「スクラッチ」をDJのグランドマスター・フラッシュが聴衆の前で演じて見せる。ここでのDJはターンテーブルという楽器をあやつる演奏者でもあった。そこにMC(ヒップホップではマイクロフォン・コントローラー=マイクの使い手、のちのラッパー)が登場し、ブレーク・ビーツにあわせてライムを即興し、また大言壮語し、相手をけなすという言葉によるゲームを始める。言葉による応酬は、アフリカ系アメリカ人の伝統であり、「シグニファイイング(悪口をいう)」、「ボースト(自慢をする)」、「ダズンズ(相手の家族の悪口を言い合う)」、「スクールヤード・ライム(学校でのかけあい)」、「ジェイルハウス・ライム(刑務所でのかけあい)」などさまざまな時代や場での言語ゲームが続いていた。しかし、ここまでは黒人の作りだしたアートを黒人がアンダーグランドで発信する段階なので、ビジネスの入る余地はない。

第二ステージはラップ/ヒップホップが商業的に成功をおさめる時期である。ここでも創世神話は三種類ある。一つは、R&B/ファンクのバンドであるファット・バック・バンドが出したシングル「キング・ティム三世」をヒップホップのはじまりとする説。しかし、200万枚を売った1979年のシュガーヒル・ギャングによる「ラッパーズ・ディライト」をラップ・レコードのはじまりとするのが定説となっている。前にふれたトリシア・ローズは「ラッパーズ・ディライト」の登場に関して、1979年ブロンクスで行われた友人の結婚式で牧師が当時はやったシックというグループのディスコ・サウンド「グッド・タイムズ」を話題にした事、そして同年その「グッド・タイムズ」を使った「ラッパーズ・ディライト」がラップの最初の商業的成功をおさめたことをふれている(ローズ、一一)。しかし、「ラッパーズ・ディライト」の音をきいてもその映像を見ても、あきらかにこの時期のラップはディスコ・サウンドに片足を残している。

ラップ創生に関する三つ目の物語はDJのグランドマスター・フラッシュとMCの集団であるフューリアス・ファイブによる「メッセージ」(1982年)である。その後の展開を見て、ラップの真の始まりは「メッセージ」にあると考えられる。この曲の時代と黒人のおかれた過酷な状況をとらえた視線の鋭さはその後のラップの方向を決めた。

 

ここはまるでジャングルだ、正気でいるのが自分でも不思議に思える

ここはまるでジャングルだ、正気でいるのが自分でも不思議に思える

いたる所にガラスの破片 / 階段には小便 / しかし誰も気にしない

でもおれはその臭いが、騒音が我慢できない / だけど出て行く金もない

表の部屋にはネズミ、奥の部屋はゴキブリだらけ / 通りでは麻薬患者がバットをもってうろつく

出て行きたいが、遠くには行けない / 車を持っていかれたから

ぎりぎりのところにいるんだから押さないでくれ / 何とか正気を失わないようにしてるんだ

 

この荒廃の様子を語る声はクールでタフだ。60年代から70年代にかけてはソウル・ミュージックが公民権運動と呼応するように社会的なメッセージを表明していた。しかし、ソウル・ミュージックのクラシックではあるカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」においてもマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」でも黒人のおかれている過酷な状況を歌っていたが、そのモータウン的な美しいメロディーがメッセージを裏切ってしまい、どこか作り手の主張よりも一般的な聞き手のことを優先した表現にとどまっている。しかし「メッセージ」ではそのような逡巡はみられない。60年代の公民権運動をへても、いまだ改善されないゲットーの現実を怒りをこめつつ冷静に描きだしている。ディック・へブディージは「メッセージ」について「ビートが閉じ込められている事のメタファーになっている。曲の続いている間、サウス・ブロンクスの低所得者用アパートにいるような気になる」と語っている。この「閉じ込められている」という感覚が、黒人が歴史的におかれている状況をあらわすキーワードになる。

ヒップホップは「メッセージ」以降、ゲットーの差別的な環境と白人の支配する体制を鋭く抗議する道具になる。エリックB&ラキムの呪文のように抽象的なライム、パブリック・エネミーの重低音を背景にしたどなるようなラップ、さらにはNWAのような西海岸のギャングスタ・ラップも登場して、ヒップホップ・シーンは多彩になる。

 

 そして80年代後半、ランDMCや LLクールJなど80年代前半に活躍したアーティストをオールド・スクールとする次世代のグループが登場する。かれらは自分たちをニュー・スクールと称し、アフリカ回帰を主張するネイティブ・タング一派がその代表格である。グループとしてはジャングル・ブラザーズ(アーバン・ジャングルであるニューヨークに住むアフロ・アメリカンをうたう)、デ・ラ・ソウル(新しいポップ・ミュージックとしてのヒップホップをつくる)、クイーン・ラティファ(女性ラッパー)、そしてKRS-ONEがいる。KRS-ONEは本名ローレンス・パーカーというジャマイカ移民二世である。かれは「ナリッジ・レインズ・スプリーム・オーバー・ニアリー・エブリワン」“Knowledge reigns supreme nearly everyone”(知識がすべての人を支配する)という英文の頭文字を名前にしたラッパーである。

このKRS-ONEの経歴や発言はヒップホップの多面的なありようを体現している。黒人の歴史の見直しや聖書の読みかえをふくんだKRS-ONEの一連のアルバムを聞くと、これは音楽によるブラック・ナショナリズムでありブラック・ニュー・ヒストリシズムとも理解できる。十四歳のときに家を出て、ホームレスや軽犯罪をくりかえしたKRS-ONEはシェルター(浮浪者収容所)でソーシャル・ワーカーをしているスコット・ラ・ロックとであう。DJでもあったスコット・ラ・ロックはKRS-ONEがすぐれたラッパーであることを知り、サウス・ブロンクスの別名ブギーダウンをとってブギーダウン・プロダクションを結成する。このゲットーのストリート・キッズと中産階級化した大学出の黒人青年の出会いに黒人社会における二極化現象を見ることもできる。最初の『クリミナル・マインデッド』(1987年)をだした直後、スコット・ラ・ロックは暴力沙汰にまきこまれ射殺される。「犯罪者志向」と題したそのファースト・アルバムにおいては、ヒップホップの生まれた場所をかたる「サウス・ブロンクス」や、ヒップホップ発祥の地をサウス・ブロンクスかクイーンズかをめぐる論争をテーマにした「ブリッジ・イズ・オーバー」といったジャンルへの自己言及性の強い曲にならんで、冒頭に詩の重要性を説く「ポエトリ」を配置する。黒人の若者への教育と娯楽を与えることが必要と考えたKRS-ONEは「エデュメント」(エデュケーション+エンタテインメント)を標榜し、音楽ジャーナリストのネルソン・ジョージと組んだ「ストップ・ザ・バイオレンス」運動を展開する。

しかしほぼ同時期、ストリート・ギャングの犯罪(暴力、銃、麻薬)、金などを肯定的にあつかった内容を中心とするギャングスタ・ラップが登場する。1988年『ストレート・アウタ・コンプトン』(コンプトンはロサンゼルスの危険地域サウス・セントラルにある)で登場したNWA(ニガ・ウィズ・アティテュード)は、翌年警察批判をした「ファック・ザ・ポリース」を発表し、FBIから警告を受ける。91年ニュー・ジャージー出身のアイス-Tが「コップ・キラー」を発表し、のちに大手レコード会社(タイム・ワーナー)の要請でアルバムから削除することになる。ここでは体制批判と検閲の問題がうきあがってくる。もちろんギャングスタ・ラップのなかにも優れた作品はあるが、多くは粗野で下品な物質崇拝主義を絵に書いたようなラップを続けていく。あるニューヨークの黒人女性はヒップホップとギャングスタ・ラップはまったく別物であると述べている。彼女の見解ではヒップホップには黒人の誇りと名誉、社会意識がなくてはならないとのことであった。その意見が正しいかどうかは別として、ギャングスタ・ラップに嫌悪感をいだく音楽ファンは多い。

 

 

3. ヒップホップを読む視点  

いままで述べてきたように、ヒップホップはストリート・カルチャーから発したブラック・ミュージックの新しい展開であり、都市の黒人のおかれている状況をつたえ、抗議する有効な手段である。繁栄から取り残されゲットーに閉じ込められた状況は、奴隷船にのせられ、新大陸に拉致された頃とどれほどちがうのだろうか。また暴力を否定し、黒人の教育の必要性とコミュニティの再建を訴えるラップをきくと、つねにコミュニティとともにあった黒人文化の歴史と公共圏を想起させられる。ギャングスタ・ラップからは暴力と麻薬と金と女にしか現実を見出せない刹那主義と物質崇拝主義の悲惨さがすけてみえる。ヒップホップをきくと、そこから様々なアメリカ社会の現況とゲットーの現実がみえてくる。しかもこのジャンルは多義的な音楽性と、時代をさまざまな角度できりとる多面性をもつので、その分析にいくつかの視点が可能になる。ここではどのような切り口があるか、またそれはなにを意味するかについて検証していく。

 

1)古くて新しい音楽、ヒップホップ

ブラック・ミュージックとしてのヒップホップ 

まず、音楽としてのヒップホップを考えてみると、そこにはこれまでのブラック・ミュージックまたはポピュラー・ミュージックとの連続性と切断している部分の両方がみられる。ヒップホップはフィールド・ハラー、ワーク・ソング、スピリチュアル、ゴスペル、ジャズ、ブルース、R&B、ソウルと連綿としてつづいてきたブラック・ミュージックの系譜につながる。フィールド・ハラーは奴隷制時代、さらには解放後もふくめて畑(フィールド)で働く黒人がその過酷な労働のなかで叫ぶ(ハラー)ことで、苦痛を解放したことに由来する。ワーク・ソングはその名のとおり労働歌を意味し、やはり作業の厳しさをまぎらわす要素と、仕事を効率よくする要素とが混在している。ニグロ・スピリチャル(黒人霊歌)は黒人特有のシンコペーションをきかせた唱法で、キリスト教の賛美歌に神の救いと解放をもとめる。ゴスペルではより黒人的な歌い方を強調する、オリジナルな宗教歌をつくりだした。

1980年代後半の奴隷解放後、都市部に移動しはじめた黒人ミュージシャンがブルースを生みだす。それまでのブラック・ミュージックが共同体の歌、もしくは宗教的な歌であったのに対し、ブルースは世俗の、かつ個人の音楽と言える。ブルースが弾き語りの音楽なのにたいし、1900年代にラグタイムと軍楽隊から発生し行進曲を主とするマーチング・バンドを前身とするジャズがニューオリンズを中心として生まれる。ラグタイムはヨーロッパの音楽形式(ワルツやメヌエットなど)を借用しながらも、やはりリズムを強調した黒人音楽の要素をあわせもつ。ジャズはニューオリンズに多くいたクレオール(白人と黒人の混血)のミュージシャンが中心となってつくりあげた音楽だった。ニューオリンズという場とクレオールという人々にカリブ海の刻印をみいだすことは容易である。つまりヒップホップと同様、ジャズにおいてもカリブ海の黒人とその音楽が重要な役割を果している。

1940年代からギターにアンプを通しリズムとビートを強調したR&Bが登場する。ここから20世紀後半のポピュラー音楽を席巻したロックン・ロールが1950年代なかばに誕生する。ロックン・ロールは黒人のR&Bと白人のカントリー&ウエスタンから発生したという人種融合的な言説が多かったが、黒人の側からは、白人の放送局で流せなかったR&Bをロックン・ロールという新たな名前をつけて売り出したものに過ぎない、という主張が出てくる。たしかにロックン・ロール創生期の黒人スター、リトル・リチャードを聴くとほぼ全面的に黒人音楽だが、同様にチャック・ベリーの音楽は黒人の演奏するカントリー・ミュージックという趣きもある。ロックン・ロールには黒人音楽の含有量の方がかなり多いが、やはり1950年代という人種の壁が少しずつ薄くなっていった時代が生んだ人種横断的なポピュラー音楽といえる。公民権運動の時代の1960年からモータウン・レコードを中心としてソウル・ミュージックが出現して、音楽と社会が密接に影響しあう。そして70年代にはディスコ・ミュージックをへてヒップホップの誕生へと進む。

上にあげた各時代のブラック・ミュージックのすべてに共通しているのが集団参加、即興、応答形式、リズムの強調である。ヒップホップはこれらの要素を継承すると同時に、二つの点でそこから切れている。ヒップホップでは、集団参加(DJ、複数のMC、聴衆の参加)、即興性(MCによる即興のライム)、応答形式(DJ対MC、MC対MC、MC対聴衆などいろいろな組み合わせでの応答)、ブレーク・ビーツや打楽器の多用、複合リズムなどにおいてあきらかにブラック・ミュージックの継承を特徴としている。しかしその一方で、その圧倒的な言語量と自己言及性とテクノロジーの使用の仕方において、これまでのブラック・ミュージックと一線を画す。自己言及性とテクノロジーの使用については、これはポストモダンの典型ともいえる。

 

ヒップホップと言葉の噴出

このような圧倒的な言葉の多さをもつブラック・ミュージックはヒップホップ以前にはなかった。たとえば、有名なブルース・ミュージシャン、ブラインド・レモン・ジェファーソンの「マッチ・ボックス・ブルース」をとりあげてみよう。ブルースのスタンザ(歌の1番、2番という区別の単位)は、はじめの1行をくりかえす3行詩からなる。最初のスタンザはこのようにはじまる。

 

ここに立って考えているんだ おれの服がマッチ箱みたいに小さい鞄におさまるかどうか

座りこんで考えていた、おれの服がマッチ箱におさまるか

マッチ箱をたくさんもっているわけじゃないが 遠くへ行かなくちゃならないのさ

 

この第1スタンザは3行で約30語からなり、1曲は5から7スタンザあるので150から200語程度の長さが通例である。もっともこれは3分のシングル・レコードを基本にしたもので、ジューク・ジョイント(生演奏を提供するバー)では興がのれば、ある程度は長くなっただろう。

ところが、ヒップホップの最初の曲といわれる「ラッパーズ・デライト」は約2500語からなり、「メッセージ」でも約一二〇〇語ほどある。この圧倒的な長さのちがいはどこからくるのだろうか。ヘンリー・ルイス・ゲイツ、Jr.はブラック・ヴァーナキュラー(黒人独特の言語)の例として「シグニファイイング」をとりあげ、その「示す」という正統的な英語の意味に対し、黒人英語で「「怒らせたり、説得したり」するために使われることを示している。そのような意味のすりかえは奴隷制の時代から、奴隷解放後も黒人は言語をうばわれ、沈黙を強いられてきた状況をはねかえす戦略といえる。ブルースにおける現実のつらさや男女関係についてのある種抑制をきかせた表現は、60年代のソウルにおいて、社会への抗議と形を変える。しかしそこでも、「いったい何がおきているんだ」(「ホワッツ・ゴーイング・オン」)とか「いつか時代は変わる」(ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム)など抑圧されてきた黒人たちの表現はなかなか積極的なものにならない。黒人の共同体内部でも、一般社会、つまり白人社会への発言は自分たちの立場を強調する、目立ちすぎると考えられていた。80年代になってはじめて抗議・抵抗・闘争があらわな、あふれるような言葉で語られるようになる。そのヒップホップの言葉の噴出に、差別がなくならないこと、貧困のなかに取り残されていることへの怒りの強さと、自己表現の規制がはずれつつあるという変化をみることができる。

  

 

ポスト・モダンなヒップホップ

ヒップホップをポストモダンといえるのは、引用やパロディというポストモダンの中心的な美学を活用しているからである。つまり、既成のレコードなどの音源を切断し、歪曲・変形し、再利用する。また過去の音楽を使用することで、時代感覚を撹拌し、非歴史性・時代錯誤を積極的に表現する。それは過去の音楽的記憶・感覚を再構成し、脱構築することにつながる。さらに匿名での盗用によって著作権というシステムを混乱におとしいれる。

引用の例としては、「ラッパーズ・ディライト」や「メッセージ」についてはすでにふれたが、ニューヨーク出身のEMPDは『ストリクトリー・ビジネス』でボブ・マーリーのヒット曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を引用する。ジャングル・ブラザーズが『ストレート・アウト・オブ・ジャングル』のアルバム・タイトル曲で、「メッセージ」を使っていることは、この曲がヒップホップのクラシックになっていることを意味している。また同じアルバムの別の曲でソウル・ミュージックのスーパー・スターであったマービン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」を引用している。同じくマービン・ゲイの「インナー・シティ・ブルース」をとりあげたのは、トライブ・コールド・クエストの『インスティンクト・トラベル・アンド・ザ・パス・オブ・リズム』だった。レゲエやソウルはヒップホップのブレーク・ビーツの宝庫だが、ロックからの引用もある。ナスの『イット・ワズ・リトゥン』ではスティングの「シェイプ・オブ・マイ・ハート」、パフ・ダディは『ノー・ウエイ・アウト』で同じスティングの「瞳をみつめて」を引用する。

引用の出典は先行するブラック・ミュージック、つまりファンク、ソウル、R&B、ジャズをはじめとして、ロックまで幅ひろい。方法としては、引用する曲のサビ(メロディーの特徴のある部分)を繰り返す、または歌詞の内容を下敷きとして、それを発展させるような詩の展開を試みるなど多様である。それは前述したように、音楽的過去の再生であり、そこに原典が歌われた状況が変わらないことをあらためて抗議しているともとれる。このヒップホップにおける引用は、ポストモダンの特徴であるパロディ、つまり過去の批評的反復の典型といえるだろう。

肯定的な引用と否定的な引用の具体例をあげよう。最初は先行するジャンルの作品に敬意を表したジャングル・ブラザーズの曲で、80年代後半から登場したニュー・スクールに属する。かれらの「ストレート・アウト・オブ・ジャングル」では、ヒップホップのクラシックといえる「メッセージ」のサビを使い、その歌詞を前提とする。さらに、ゲットーを都会のジャングルに見たてて、そこで生き延びることの過酷なことを抗議し、自分はそこからやってきたんだと主張する。

 

生きるために、生き残るために死に物狂いさ / ただ生きるためにさえ必死なんだ 

だってジャングルでは、生きるか死ぬかだ / 目を大きく開けていなくては

ジャングルで生きるのに必要な目をもたなくては

 

もう一つの例として、ノートリアス・BIGというラッパーの「シングズ・ダン・チェンジド」(『レディー・トゥ・ダイ』)をあげる。これは公民権運動の盛んな60年代に、いつか差別がなくなり、自由で平等な社会が実現するとサム・クックがうたったソウルの名曲「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」への否定的なオマージュだろう。つまりサム・クックと曲には敬意を表しても、「時代は変わる」、「いつかいい時代がくる」といわれていたことに対し、いまは「時代が(悪い方に)変わってしまった」と皮肉っている。

 

そして時代はながれ1993年、黒人たちは銃で撃たれ / 生意気なこといえば喉を切られてしまう(中略)

プロジェクトの廊下では麻薬をやり、一日中さいころ賭博をやっている

みんなケンカが始まるのを待っている / かっとなればすぐケンカがはじまる

でもなぐりあいでもしようと思っているなら引っ込んでたほうがいい もうそんな時代じゃないんだ(中略)

つまりは時代が変わってしまった / 昔は話し合いですんでたことが / 今ではすぐ銃をもちだす

 

そして、「レディー・トゥ・ダイ」(=いつ死んでもいい)といっていたノートリアス・BIG本人も1997年射殺されてしまい、ヒップホップのもつ終末的ヴィジョンを体現する。

 

またヒップホップはその自己言及性においても他のブラック・ミュージックと一線を画する。これほどジャンルの現状、ミュージシャンの力量・消息に関して、ラップの中でふれるジャンルもないだろう。この自己言及性もポストモダンの特徴の一つだが、ヒップホップの歴史と黒人の現在をうたうブギダウン・プロダクションの「ヒップホップ・ルールズ」を例にとってみよう。

 

  ヒップホップが支配する、ヒップホップが支配する / 他の音楽ではだめなんだ

ヒップホップが必要なんだ、ヒップホップがいるんだ

時代は1979年 / ファットバック・バンドがレコードを作る

同じ年にはシュガーヒル・ギャングが“パウ・ワウ・ブギー” / “ビッグ・バン・バン”と登場

R&B、 ディスコ、ポップ、カントリー、ジャズ / ヒップホップが出てきてみんな過去のものになった

しかしグランドマスター・フラッシュがすかさず登場 / そのすぐ後にランDMCがやってくる

 

ここでのKRS-ONEはヒップホップの歴史をふり返りながら、自分のラップが最強で、そのライムは最高であると自己宣伝をするのは、いかに自分のライムが素晴らしいかを競い合うMC同士のストリートにおけるライム・ウォーの名残りといえる。

 

2)ヒップホップ・コミュニティ   

 

次にヒップホップを社会というコンテクストにおいて浮かびあがってくる事について考えてみる。ヒップホップはアメリカの黒人がおかれてきた歴史的経緯、現状を雄弁に語っている。語られるのは、ブラック・ディアスポラ、都市のゲットー、プロジェクトに閉じ込められ、そこから抜けだせないこと。そして、それら抑圧的な社会環境のなかから、ヒップホップというストリート・カルチャーを生みだし、黒人の公共圏を作りだしたことなどである。

 

ブラック・ディアスポラとしてのヒップホップ

ヒップホップの誕生からもともとアメリカに住む黒人の他にカリブ海諸国からの移民が多くかかわっている。例えば、バルバドス移民(グランドマスター・フラッシュ)、ジャマイカ移民(クール・ハルク)、ジャマイカ移民二世(KRS-ONE)、ハイチ移民(フュージーズ)などは、その音楽にもカリブの出自を強くうちだしている。前述したように、ヒップホップのそもそものはじまりが、クール・ハルクがジャマイカからもちこんだサウンド・システムとDJによる野外コンサートという方法をニューヨークでのストリートに拡張したものだった。KRS-ONEによる聖書の読み替えは、ジャマイカ出身の黒人運動指導者マーカス・ガーベイにルーツがある。ガーベイの「アフリカ回帰」と「黒人の王が即位するときのアフリカを見よ。彼こそ救世主になろう」というメッセージがジャマイカにラスタファリアニズムまたはラスタ主義を生み出した。

イギリスのカルチュラル・スタディーズの研究家ポール・ギルロイはその論文「どこから来たかじゃなくて、どこにいるのかが重要なんだ」においてヒップホップのディアスポラ性について次のようにのべている。

 

ラップは、雑多な文化が混合するサウス・ブロンクスの社会環境にルーツを持つ、ハイブリッドな形態である。サウス・ブロンクスでは、1970年代に移植されたジャマイカのサウンド・システム文化が根付くようになり、テクノロジーの革新と期をいつにして、アメリカの黒人の自己認識とポピュラー音楽産業の大部分を変革することになる一連の動きが始まった。この国境を越えるだけでなく、柔軟性に富んでいる文化形態は、どのようにしてアフリカ系アメリカ人の本当の特質を表現するものとして解釈されるようになったのだろうか。どうして、ラップはブルースから直接生まれたかのように議論されているのであろうか。アフリカ系アメリカ人の知的エリートたちが、このディアスポラとしての文化形態の所有権を断定的かつナショナリスト的に主張するのは、どうしてなのだろうか。

 

ギルロイが主張するように、ラップはアメリカの黒人が独自に始めたというより、ジャマイカを始めとするカリブ海の国々おけるアフリカ系の人々が中心となって、アメリカのゲットーで生みだしたともいえる。一方ではジャマイカの音楽もアメリカのブラック・ミュージックの影響をうけている。ヒップホップはブラック・ディアスポラが生みだしたものであるから、このように多面的・多義的な音楽として、多くのひとびとに受けいれられるといえる。

ブラック・ディアスポラの黒人が共通にいだくアフリカのイメージは時間がたつにつれて薄れていくが、そのなかで聖書におけるエチオピアがそのよりどころとなる。先ほどふれたジャマイカでのラスタ主義は、キリスト教をアフリカ的に解釈し、そこにマーカス・ガーベイの予言が実現した(ように見える)エチオピアでの黒人の皇帝の即位をきっかけとして発生する。

KRS-ONEは「ホワイ・ワズ・イット?」で、ガーベイの言説をなぞるように旧約聖書を解釈し、黒人の若者へのプライドをかきたてる。

 

おれが犯罪のことを話そうとここへやって来ると、やつらは文句をいう

だけど教えてほしい / 黒人の若者がわざわざ自分をだめにするのはなぜだ??

わざわざ読み書きと行動の仕方を学ぶ / それは猫に犬になれと教えるようなものだ

白人の子どもには黒人みたいになるなと教えてるんだろ

なぜだ? / 黒人が少数民族だからか? / それなら、黒人の子どもたちはおれのいうことをわかってほしい

創世記の11章、1節から10節 / そこではセムの家系図が説明されている

セムはアフリカで生まれた黒人だ / この章をくり返して読めばそのことがわかるだろう

創世記14章、13節、アブラハムが登場する / セムをみんなに紹介するために、これは事実だ

つまりアブラハムも黒人だったということ / アブラハムは黒人が支配する街に生まれた(中略)

創世記10章によれば / エジプト人は八ムの血を受けついでいる

600年後、おれたちの同胞は同じことをくり返した

モーセはエジプトで生まれた / その当時、エジプト人は間違ったことをした

かれらは黒人であるイスラエルの民を奴隷にした / モーセも黒人というわけだ

彼はファラオ(古代エジプト王)のもとで四十年間も過ごしたから

彼はファラオの孫として過ごした / だからモーセはおれの仲間たちだ / この曲を分かってくれ

間違いを正そう / 今のおれたちが得られる情報は間違いだらけ

でも自分自身に問いかけてみればいい、“なぜだ?”

 

たしかにエチオピア人が黒人だったという言説は成立するかもしれない。しかしより北方のイスラエル人を黒人とし、だからイスラエルの指導者モーセをも黒人であるという主張は、聖書という大きな物語への自己同一化の試みであるとしても一般には了解できないだろう。したがって黒人のアイデンティティーの復権という戦略のもとでの、この聖書の読み替えは破綻する。しかし、これが誤読であるとしても、聖書をディアスポラ・パラダイムへとりこむ営為とも考えられる。しかもここで重要なのは、黒人の若者に歴史の重要性とプライドを教えることであるのはいうまでもない。

 

閉じ込められた黒人

ヒップホップはディアスポラがもたらす「コンファインメント」(幽閉、監禁、閉じ込め)への抗議、そこからの脱出の試みの表現ととらえることも可能である。荒このみは『アフリカン・アメリカンの文学』の中で以下の様に述べている。

 

閉じられた世界の奴隷船のなかで「アメリカの黒人」は創造されたが、「幽閉、監禁」を意味する「コンファインメント」はラテン語の「限界」から来ている言葉であり、「境界」をあらわす。「アメリカの黒人」はこれまでずっとこの境界に押し込まれてきた。居住空間という物理的な領域においても精神の領域においてもそうだった。南部の大農園では奴隷小屋――スレイヴ・クォーターズーーに閉じ込められ、第一次大戦後に北部への黒人の大移動が起こると、かれらは都会のゲットーに閉じ込められた。黒人を差別した南部のジム・クロウ法は、汽車や待合公衆便所や食堂で黒人のいる場所を限定し、そこに閉じ込めた。人種隔離政策は入学可能な学校を限定した。そのような白人のアメリカの支配体制による強制的な閉じ込めの作業によって、「アメリカの黒人」は特殊な「黒い空間」に押し込められていったのである。

 

この「閉じ込められた」状態を酒井隆史は60年代後半からの状況もふくめて以下のように述べている。

 

60年代終わりからの「都市の危機」以降、都市リストラクチュアリングのプロセスは、いよいよ労働から縁を切った貨幣の抽象性、流動性を裏付けにして、具体的な場所においてその空間性や史性を参照しながら経験やアイデンティテイを紡いでいた人々の日常生活をものともせずに、暴力的な境界の再設定をすすめてきた。・・・・・・かろうじて何らかのかたちで「力関係」のうちに組み込まれていた人々は、「関係」に参与することすら禁じられひたすらローカルな「場所」に封じ込められる。

実際「ストリートに忠実である」とされるハードコア・ラップはひんぱんに特定の場所に自らが囲い込まれている、張り付けられているという閉塞感(それは自らの生活半径としての「フッド」確保への強力な欲望と裏腹なのだが)が表明される(2)。70年代中盤(75年)にすでにジョージ・クリントン(パーラメント)は「チョコレート・シティ」と「ヴァニラ・サバーブ」というかたちでポスト公民権の時代のセグリゲーションの現実を表現していた。六〇年代後半の頻繁な都市暴動による政治危機と経済的リセッションにあいともなって、つまりポスト公民権運動、ポスト・ブラック・パワーの空間配置は「貧困との戦争」が前提にしてさらに促進しようとしていたコンセンサスを内側から解体し、郊外化という事実上のセグリゲーションを促進してきた。(強調筆者)

 

ここでは、自分の生活の場、フッド(「ネイバーフッド」=近所)を確保しつも、ゲットーのストリートに「閉じ込められている」ことにたいしての異議申立はヒップホップ以前のブラック・ミュージック(ここではファンク)においてもなされていたことを指摘している。

 

このような「閉じ込められた」状況をヒップホップでは以下のように表現している。

 

現実では、昔もいまも / おれの肌の色が黒すぎるからといって / おれを百姓みたいにあつかう

どうしてなのかわからない / おれたちにはちゃんとした考えが必要だ

なぜいつも銃を持ち歩かなきゃならないんだ / おれはなぐりあいになるようなケンカを探している

なぜだかわから分からないが、つまりはおれがジャングルに住んでいるからだろう

(スクーリーD「リヴィン・イン・ザ・ジャングル」一九八九)

 

ゲットーでは笑みを浮かべている者は誰一人いない

どんなステージでもおれは最高のマイクさばきを見せる / たったひとりで誰にも頼らないし

ひとりで遠くまで行く / 言いたいことはあり過ぎる程だが、今はゆっくりとラップをする

おれは本当のことしか言わないし、後ろはふりかえらない

学ばなければならないことはたくさんあるが / おれは必要なことを学ぶ

ゲットーはおれの人生におきた最悪のことだった/どこから来たかじゃなくて、どこにいるのかが重要なんだ

(ラキム「イン・ザ・ゲットー」1990)

 

この荒っぽくて、タフなゲットーのストリートの真実を覚えておく

それが、おれたちに本当の物の見方を教え、導いてくれるから

いつかは死ぬと分かっているけれど / 死ぬかぎりは、盗みをしてでも金を手にして死んでいく

おれたちが期限切れになり、蒸気と化すその日まで、

おれのやった犯罪とおれ自身が、どこかに積まれている、たくさんの紙くずと一緒に(中略)

人生なんてうんざりだから、死ぬだけさ

(ナス「ライフ・イズ・ア・ビッチ」1994)

 

 

スクーリーDのこの曲は『アム・アイ・ブラック・イナッフ・フォー・ユー』に収録されているが、このフィラデルフィア出身のラッパーのライムにフランツ・ファノンの「黒い肌」に関する言説のエコーを聞くことは容易である。ヒップホップ史上すぐれたアルバムを出しつづけたエリックBとラキムのコンビを解散したあとのラキムも健闘しているが、やはり本領はコンビ時代にある。出自ではなく現在地にこそ意味を見出すというディアスポラ的視点をあらわすリフレーン、「どこから来たかじゃなくて、どこにいるのかが重要なんだ」を自分自身もイギリス人とジャマイカ人の混血であるギルロイは自分のエッセイのタイトルに採用している。ニューヨークのクイーンズ出身のナスには「ストリート・ドリームズ」というやはりゲットーのストリートやプロジェクトで生きのびる事の過酷さを表現している曲があるが、その両方において、ヒップホップの祝祭的な側面と対極をなす、ニヒリズムと絶望をあらわしている。

 

 

ヒップホップ・コミュニティ

では、ゲットーの中で閉じ込められている都市の黒人には何が必要になるか。それは人々を結びつけるコミュニティである。前述のトリシア・ローズはポスト・インダストリアル社会のゲットーにヒップホップの果たす役割は大きいと指摘する。

 

脱工業化したアメリカ都市の周辺における生活は、ヒップホップのスタイル、サウンド、歌詞、テーマに表現されている。脱工業化した都市の欠如と欲望が交錯する場から出現したヒップホップは、社会における疎外と予言にみちた想像力との苦しい矛盾をうまく処理する。ヒップホップはアフロ・ディアスポラ的文化形態の一つであり、アメリカの黒人とカリブ海の人々の歴史、アイデンティティー、コミュニティから出る文化的必要性の範囲内で、周縁化、暴力的に奪われた機会、抑圧などの経験を扱う。ヒップホップの発展を捉える批評的枠組みを作るのは、脱工業化社会の抑圧が生み出した文化の断片化と黒人の文化的表現力を一つにする絆の間の緊張であろう。

 

文化の断片化を強いられながらヒップホップを生み出していくのに必要だったのは黒人の公共圏であった。それは白人社会におけるサロンなど余裕のある空間とはちがい、戻る場の確保されていない状況での必死の選択だったのである。その理由には安定した家庭=プライベートな場の欠落もあるだろう。また公共圏の種類も、宗教的な場としての教会、世俗の場としてのパーティーまでは、白人社会と共通しているだろうが、公園、ストリート、刑務所を公共圏とするのは黒人社会の歴史の特徴であり、それは黒人文化がつくりだしたカウンター・カルチャーといえる。

 

ヒューストン・ベーカー、Jr.は 公民権運動の時代の「刑務所」という新しい黒人の公共圏の発生と意義について、そして伝統的な公共圏であった黒人社会における教会の位置付けについてふれている。

 

偶然でも異常なことでもないのだが、マーティン・ルーサー・キングの公民権運動に関するもっとも心に強く訴える、効果的な文献は、実際、刑務所という新しい黒人の公共圏から発せられたものだった。それはアラバマ州バーミングハムからの手紙だった。さらに白人の支配するアメリカの牢獄において、コミュニケーションや集団のアイデンティティー形成が効果的になされたのを知ると、黒人たちが公民権運動が終ったあと「刑務所」を意識的にとらえるようになったのは、驚くにたらない。・・・・・・ブラック・モスリムやブラック・パンサー、またはエルドリッジ・クリーバーのような人が、エサリッジ・ナイトのような業績のある詩人もそうだったように、刑務所という黒人の公共圏を認識させるのに貢献した。

 

W・E・デュボイスは『黒人のたましい』の中で、黒人教会を分析したときに、黒人と白人の公共圏は並立していることの意味と結果を鋭くとらえている。デュボイスは「父祖たちの信仰」という章で、教会は効果的に人々を統治し、黒人が人種による偏見と社会的状況によって切り離されている偉大な社会を縮小再生産している、とのべている。・・・・・・黒人の公共圏において教会は、黒人の集団生活の緊張を維持し、かつ表現している。教会は黒人社会の中心であると同時に宗教的中心でもある。物質的所有の場でもあり、熱狂的な精神再生の場でもある。知的指導者のメッカであると同時に、無学な人々にとって音楽をともなう伝導の輝かしいオアシスである。

 

KRS-ONEは刑務所でのライム・ウォーで、ラッパーとしての技術を磨いたといわれる。マルコムXは刑務所で学問を身につけ、イスラム教に入信した。黒人の歴史において刑務所が、学校や教会の機能もあわせもつ公共圏であるというのは、当然ながら黒人がアメリカの歴史のなかでおかれていた立場を象徴している。教会においても、単なる宗教の中心ではなく、もっと祝祭的な「音楽をともなう伝導の輝かしいオアシス」として機能したところに、黒人の公共圏としての教会の特徴があった。その音楽が公共圏の概念を拡大するものとして、もう一つの公共圏として立ち現れてくる理由について、毛利嘉孝は述べている。

 

音楽は黒人のダイアスポラ文化にとってオルタナティヴな公共圏として働いている――おそらく、これはポール・ギルロイの主張の中でも最もよく知られたものであり、繰り返し引用されてきた。たとえばディック・ヘブディッジの『カット・ン・ミックス』(一九八七)はこのフレーズを引用しながら、黒人音楽がアフリカ、アメリカ、カリブ諸島、そしてイギリスの間で転移していった様子を詳細に描き出している。ここで扱われているレゲエ、スカ、ダブ、ヒップホップ、ラップといった音楽は、決してどこかの地域や国をその究極的な起源として特定することができない。音楽の形式は、ポール・ギルロイがブラック・アトランティツクと呼ぶ空間の間を移動し転移し変容し続けている。このブラック・アトランティックという秘儀的な空間を考えることは何よりもまず「起源」について考えることを要請する。

 

 このようにヒップホップを生み出し、ヒップホップがつなぎとめているのは、ブラック・コミュニティであった。それは黒人教会から、ストリート、時には刑務所という、白人ブルジョワ社会では想像もつかない、しかし重要な黒人公共圏でもあった。さらに視点を拡大するならば、カリブ海をもふくむ、ブラック・ディアスポラのより深く、より大きなコミュニティの声としてヒップホップをとらえることができる。

 

 

4.ヒップホップの現在

これまで、ヒップホップという現象の意味、その音楽としての歴史、アメリカ社会というコンテキストにおけるヒップホップ・カルチャーについて見てきた。そこで立ち現れてくるのは、ヒップホップがなによりも、ポストモダンの特徴をもつストリート・カルチャーという事実である。1970年代にニューヨークのゲットーに出現したこの黒人文化はラップ、ブレーク・ダンス、グラフィティのどれをとってもストリートがよく似合う。そこは文化における身体性の躍動と解放が表現される、オールタナティヴな黒人公共圏である。ブラック・ディアスポラによって「閉じ込められた」状況をはねかえす場としてのストリート、そこでくりひろげられる祝祭と抗議をかねそなえる黒人文化としてヒップホップをとらえる。それはアメリカ文化に対し、黒人文化が穿つ亀裂として多義的なヴィジョンを提供する。

しかし、ヒップホップの未来をどのように考えるか。今までのハードコアなヒップホップに対し、ヒップホップ・ソウルとアレステッド・デヴェロップメントのような新しいタイプの路線を補助線に引くと、未来のありようが見えてくるのはないだろうか。ヒップホップ・ソウルというジャンルは、ヒップホップまたはソウルが疲弊したり消耗した結果、出現したサブ・ジャンルではないのは、レゲエやカリブの影響を積極的に取りいれるローリン・ヒルの存在が証明する。また一九九九年のグラミー賞をとったアレステッド・デヴェロップメントという風変わりな名前のグループは、いくつかの点でヒップホップの新しい可能性を示唆する存在といえる。革命やゲットーの荒廃をうたっても悲惨にならない。リーダーであるスピーチの声はユッスン・ン・ドールやサリフ・ケイタのようなアフリカの歌い手を連想させる懐かしい声の響きをもつ。またコンサートでも子どもたちが一緒に歌え踊ることができるようなライムとはずむビートが他のヒップホップ・グループとは異なるありかたを示す。つまり、ヒップホップが少なくともディアスポラの歴史とゲットーという現実をみすえつづけ、しかもシニシズムにおちいらなければ、あらたな可能性を受け入れる音楽として、内部からの異質な要素がジャンルを活性化させる。

 

 

文献

リンダ・ハッチオン『ポストモダニズムの政治学』川口喬一訳、法政大学出版局、1991年。

酒井隆史「万国の犬諸君、団結せよ!」『現代思想』1997年年10月号、青土社、1997年。

毛利嘉孝「暴力と音楽――ポール・ギルロイの音楽論」『現代思想』一九九七年年十月号、青土社、1997年。

S・H・フェルナンデス、Jr.『ヒップホップ・ビーツ』ブルース・インターアクションズ、1998年。

チャーターズ、サミュエル『ブルースの本』小林宏明訳、晶文社、1998年。